RAPT | 偶像崇拝を強要し、輪廻転生はあると嘘をついた「釈迦」は、悪魔崇拝者だったのか。
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偶像崇拝を強要し、輪廻転生はあると嘘をついた「釈迦」は、悪魔崇拝者だったのか。

偶像崇拝を強要し、輪廻転生はあると嘘をついた「釈迦」は、悪魔崇拝者だったのか。

Gandhara_Buddha_(tnm)
 
昨日は「前世」も「輪廻転生」もないという客観的、かつ確固たる証拠を皆さんにご提示しました。
 
「前世」はない。「輪廻転生」もない。その確固たる証拠。
 
つまり、「前世」や「輪廻転生」が何の根拠もないデタラメ話であることがはっきりと分かったわけです。
 
要するに、江原啓之とか美輪明宏といったような人物は「前世」ブームを作って、「前世」利権を生み出し、「前世」でボロ儲けする人たちのために活動していたということです。
 
彼らもまた詐欺師だったということですね。
 
口先ではあれこれと良いことを言って善人ぶり、聖人ぶっていましたが、結局のところ「あなたの前世はこうこう」と嘘をつくわけですから、これほど悪質な詐欺師はいません。
 
そもそも、昨日も書きましたが、美輪明宏のように「同性愛者」という既に人としての道を踏み外したような人が、人の道を説くということ自体、とてもおかしな話です。
 
「同性愛者」から人生について学んでいけば、学んだ人もいずれ「同性愛者」になってしまう可能性があります。
 
その一方、「聖人」から人生について学べば「聖人」になりますし、少なくともその可能性が高くなります。
 
ですから、私ならもちろん「聖人」から学ぶことを選びます。「同性愛者」なんかには絶対に学びたくもありません。「詐欺師」にもなりたくありませんので、「詐欺師」からも人生を学ぶつもりはありません。
 
しかし、ここで問題になってくるのは、果たしてこの世で「聖人」と呼ばれている人たちは皆、本当に「聖人」なのかということです。
 
特にここ数日、問題になっている「釈迦」は本当に「聖人」なのかということです。
 
昨日は、釈迦の説いた「輪廻転生」が嘘だったということがはっきりと分かりました。
 
となると、彼は世紀の大嘘つきということになります。彼のせいでどれほど多くの人たちが「輪廻転生」を信じてきたか分かりませんから。
 
そして、嘘つきは決して「聖人」とは呼べません。むしろ「悪魔」と呼ぶべきです。
 
しかも、「釈迦」が生きていた当時、釈迦の生まれたインドではバラモン教(ヒンズー教)が流行していて、そのヒンズー教から「輪廻転生」の要素を仏教に取り入れたと言われています。
 
で、ヒンズー教は言わずと知れた悪魔教です。詳しくは以下のリンクをご覧ください。
 
この世の神はとかく悪魔だらけ。ヨガ、アセンション、アガルタ関連の話には要注意です。
 
その悪魔教の要素を自らの教えの中に取り入れたということは、「釈迦」もまた悪魔崇拝者だったのではないかという疑いが出てきてしまいます。
 
しかも、「仏教」と「偶像崇拝」は切っても切れない関係にあり、この「偶像崇拝」もまた悪魔崇拝そのものと言っても過言ではない行為です。これについてはこのブログで何度も書いてきましたね。
 
「聖書」でははっきりと「偶像礼拝」が禁じられているのに、バチカンでは正々堂々とイエスやマリアの偶像が飾られ、それを拝むようになっています。
 
これがなぜかといえば、バチカンにいるキリスト教徒たちは本物のクリスチャンではなく、悪魔崇拝者だからです。
 
このように悪魔崇拝者は、神様の禁じた「偶像崇拝」をわざと一般のクリスチャンに行わせることで、神様を冒涜するように仕向けてきたわけです。
 
で、このような悪魔教的な要素の強い「偶像崇拝」が「仏教」では当然のように行われているわけですから、この時点でもう既に「仏教」は悪魔教であると考えていいかも知れません。
 
その上、さらに「釈迦」の唱えていた「輪廻転生」まで嘘だったと分かったわけですから、もはや「釈迦」が悪魔崇拝者であったという疑いは強くなるばかりです。
 
ということで、今日は「釈迦」が悪魔崇拝者であると疑わざるを得ない理由を箇条書きにまとめることにしました。
 

1. 仏教は「偶像崇拝」を前提としている。

 
これについては、もう説明は不要でしょう。
 

2. 仏教には「釈迦」の書いた教典が存在しない。

 
「釈迦」は自分でも仏典を書き残さず、弟子たちにも書き残すことを許しませんでした。現在、残されている仏典はすべて、「釈迦」の死後、弟子たちが勝手に編纂したものです。
 
----------------(以下、ウィキペディアより転載)
 
仏教の経典は、釈迦時代は釈迦が文書化を許さなかったため暗記によって保持されたと伝えられる。
 
この時代のインドでは、文字はすでに普及していたが、その使用は商用や法規の公布などに限られ、世俗の用件に用いるものではなかった。
 
ことに、書くことで自分を離れるから、聖典に対する敬虔さを失うと考えられて、文字に記すのではなく、体で覚えたわけである。
 
仏典が組織的に編まれたのは、釈迦の入滅後間もない時期である。
 
釈迦の入滅時に一人の比丘が「もう師からとやかくいわれることもなくなった」と放言したことがきっかけで、これを聞いた摩訶迦葉が、釈迦の教説(法と律)を正しく記録することの大切さを仲間の比丘たちに訴え、聖典を編纂した。
 
----------------(転載ここまで)
 
本当に尊い教えを説き、その教えによって人々を救うことができると考えていたなら、「釈迦」もきちんと自分の教えを記録するなり、人に記録させるなりして、それを後世に残そうと考えるのが普通ではないでしょうか。
 
なのに、それをしなかったばかりか、それを禁じたわけです。しかも、「書くことで自分を離れるから、聖典に対する敬虔さを失う」というのも、「聖人」らしからぬ客観性、理論性に欠けた妄言にしか思えません。
 
皆さんも日頃から重要な情報はネットで拡散しようとされていると思います。
 
重要な情報は広めなければならない、多くの人々に知らしめなければならないと考えているからです。そして、そう考えるのが普通です。
 
あるいは、自分が本当にいいと思ったものは人にどんどん教えたくなりますよね。
 
私も「タヒボ茶」や「だし&栄養スープ」を飲んで余りにも良かったので、思わずこのブログで宣伝してしまいましたし、今も宣伝しています。(本当にこれらを飲み出してから、体がとても元気になりました。疲れというのを余り感じないのですよね、以前と違って)
 
そうやって良いものを人に伝えれば、多くの人を幸せにすることができるからです。そして、実際にそうすることができれば、自分も嬉しいですよね。
 
ところが、「釈迦」が自分の教えを広めようとするどころか、それを隠そうとしたわけです。私はここに疑問符を打たざるを得ません。
 
これはもはや世界最大の悪魔教である「ミトラ教」と同じです。「ミトラ教」にも正式な教典というものが存在していません。
 
いえ。もしかしたら本当はその「教典」がどこかに存在しているのかも知れませんが、少なくとも公には公表されていません。
 
恐らく「悪魔崇拝」の秘儀(淫乱邪悪な秘儀)がこれでもかと言わんばかりに書かれてあるので、とても我々庶民の目に触れさせるわけにはいかないのでしょう。(ミトラ教についての詳細は以下のリンクをご覧ください。)
 
キリスト教がミトラ教から誕生したという大嘘。ミトラ教は悪魔教であり、悪魔崇拝者たちが悪魔教の要素をキリスト教に混入していったのです。
 
で、釈迦も自分の教えをきちんと書き残そうとしなかったのは、釈迦の教えの中に、人に知られてはマズイようなことがあったからではないかと疑わざるを得ないのです。
 
もしや「釈迦」も、「密教」を説いた空海と同じく、表向きは良い教えを説いていながら、陰では「余りにも奥深い」淫乱邪悪な教えを説いて実践していたため、その証拠を残さないように、弟子たちに自分の教えを文書化することを禁じていたのではないでしょうか。(密教についての詳細は以下のリンクをご覧ください。)
 
〈閲覧注意〉日本の密教もまた悪魔崇拝そのものです。
 
で、「釈迦」のその裏の顔を知らない弟子たちが、「釈迦」の説いた良い教えを教典としてまとめた……ということかも知れません。
 
しかし、その弟子たちは「偶像崇拝」がまさか悪魔の教えであるとは分からなかったので、「偶像崇拝」の教えも正々堂々と書いて残してしまったというわけです。
 
まあ、あり得なくもない話ですね。
 

3.「釈迦」の説いた「輪廻転生」は嘘だった。

 
「釈迦」の説いた「輪廻転生」は嘘でした。となると、「釈迦」は大嘘つきだったということになり、それだけで「聖人」としては失格です。
 
「聖人」は「嘘」をついてはいけません。「嘘」をついたら「聖人」とは言えません。
 
あるいは「釈迦」は、「輪廻転生」があるのかないのかよく分からず、単にあるかも知れないと思って適当に「輪廻転生」を説いたのでしょうか。
 
だとしたら、それもそれで「聖人」としては失格ですね。
 
「聖人」とは、人に生きる道を説く人のことを言います。適当に人の生きる道を教えて、人を道に迷わせるようなことをしてはいけません。それでは、その辺のカルトと全く同じです。
 
もっとも、一部の僧侶や学者たちの間では、「釈迦」は「輪廻転生」を説いていなかったとの見解を述べている人もいるようです。
 
----------------(以下、ウィキペディアより転載)
 
一方、現代の仏教者、僧侶、仏教研究者の中には、「釈迦は輪廻説を前提としておらず、インドに古代から信じられて半ば常識化していた輪廻を直接的に否定することをせず、方便として是認したに過ぎない」と主張する者も少なくない。
 
輪廻転生を理論的基盤として取り込んだインド社会のカースト差別に反発してインドにおける仏教復興を主導したビームラーオ・アンベードカルは、独自のパーリ仏典研究の結果、「ブッダは輪廻転生を否定した」という見解を得た。
 
この解釈はアンベードカルの死後、インド新仏教の指導者となった佐々井秀嶺にも受け継がれている[11]。 このように輪廻否定を積極的に主張する仏教徒グループを、断見派と呼ぶ。
 
----------------(転載ここまで)
 
しかし、「輪廻転生」を「方便として是認したに過ぎない」というのも、それはそれで大きな問題ですね。
 
「聖人」が「方便」など使ってはいけません。「方便」を使うような人を「聖人」として認めてはいけません。
 
もっとも、この「断見派」の説はあくまで一部の例外的な考え方のようですので、「釈迦」が「輪廻転生」を唱えていなかったということはないのではないでしょうか。
 
ということは、やはり「釈迦」は大嘘つきだったということなり、「釈迦」は「聖人」として失格ということになります。
 
それに何より、この「輪廻転生」の概念は、インドのカースト制などの「差別」を生んでいるという確固たる現実があります。
 
これだけでも「輪廻転生」という概念が悪魔的であると考えざるを得ません。昨日、こんな記事を紹介して下さった方がいました。
 
----------------(以下、こちらから転載)
 
私たちは、自分が気をつけていても大変なことが人生で起こってきます。それをカルマと説明されて納得できますか。
 
この考え方は極端にいくと、差別を生みます。
 
インドではこの前世についての考え方に基づいて、カースト制度が生まれました。
 
生まれながらに貧乏だったり、障がいを抱えている人は、「カルマ」があるからと説明して差別をするのです。徹底的に。
 
インドでは多くの貧しい人たちが見捨てられてきました。
 
世界で最も貧しい人たちが集まる場所のひとつのインドのスラム街があげられるのは、このカースト制度に基づく差別に起因しているといわれています。
 
前世という考え方は極論すると、世界にこのような悪影響を与えてしまうこともあるということを覚えていてください。
 
----------------
 

4.「仏教」で唱える「お経」がどんな徳につながるのか理解不能。

 
これまでこのことに言及した人は余りいなかったかも知れません。

しかし、この際だからはっきりと言いますが、例え「お経」の中にどんな深い意味が込められていたとしても、それを何度も繰り返し暗唱することに何の意味があり、何の徳があるというのでしょうか。
 
そんなことをして、私たちに一体どんな人間的成長をもたらしてくれるというのでしょうか。
 
大の大人がこんなことを毎日やったところで、一体、どんな成長、発展があるというのでしょうか。
 
一方、「キリスト教」の場合、「お経」のようなものは一切存在しません。一応、イエスはこう「祈りなさい」とは教えました(マタイによる福音書6章9〜13節など)が、それを繰り返し暗唱しなさいと言ったわけではありません。
 
ですから、ある意味、どう祈るかは個人の自由です。どんな言葉で、どんな表現で、どんなことを祈るのかは基本的に自由です。
 
逆にそうでなければ、色々と困った問題が発生します。
 
なぜなら、聖書を読んで多くのことを悟れば悟るほど、自分の考えがどんどん深くなっていきますので、その祈りの内容も自ずと深くなっていきます。
 
それなのに、毎日同じことばかり祈るよう強要されるなら、わざと成長を止められてしまうようなものです。
 
また、人が一日一日生きていく中で、色々な事件や問題が起きます。ですから、我々はそれを全て神様に告げて、解決してもらわなければなりません。
 
それなのに、神様と対面した際、そういったことは何一つ告げることが許されず、ただいつもと同じ呪文ばかり唱えなければならないのなら、一体、その行為にどんな意味があるでしょうか。
 
人は自分の悩みを他人に打ち明けるだけでもすっきりとし、安心します。
 
まして、人が全知全能の神様に自分の問題を告げるならもっとすっきりとし、安心します。しかも、神様はその問題をいずれきちんと解決してくださいます。
 
ところが、仏教ではそんなことすらもできないわけですね。
 
また、神様に感謝したり、神様ご自身が望むことをお祈りして、神様の心を喜ばせるということも、キリスト教ではとても大事なことです。
 
要するに「祈り」とは神様との対話なのです。
 
対話とは、相手に気遣いつつ、相手を喜ばせたり、相手を慰めたり、自分の言うべきことを述べたり、自分の思いや気持ちを伝えたり、自分の悩みを告げたり、あるいは相手の悩みを聞いてあげたり……ということです。
 
神様は私たち人間にそのような対話をいつも求めています。神様は私たちのことを愛しているので、いつも私たちに話しかけてほしいと思っているのです。
 
ところが、仏教ではこういったことは一切なくて、ただ決まった文章を繰り返し暗唱するだけです。
 
はっきりと言いますが、誰かと対話するときに、どこかに書かれた文章を繰り返し暗唱するような人はいません。もしそんなことをしたら、ただの気違いだと思われてしまいます。
 
ところが、仏教では神様(仏様)に対して、そんな気違い沙汰をしなければならないわけです。
 
これではまるで神様(仏様)のことを人間以下の存在として扱うようなものです。
 
しかも、こんなことばかりやっていたら、人間の考える能力も低下し、いずれ思考停止状態になってしまいます。
 
現在、学校の勉強も単なる「詰め込み式」をやめるという方向で話が進んでいます。「詰め込み式」の勉強ばかりしていても、考える能力、発想する能力が身につかないからです。
 
ところが、人を「聖人」に育てるための宗教が、この詰め込み式をやらせるわけですから、私からしてみれば全くの意味不明です。
 
いやいや。「お経」には深い意味が隠されているのだ、その意味を噛みしめながら「お経」を唱えると、新たな悟りが生まれるのだ、と仰る方がいるかも知れません。
 
まあ、そう思うならご自由にそう思って「お経」を唱えていてください。あなたがそうしている間に、私は自分の言葉で神様に祈りますので。
 
率直に言って、人というのは知能が発達すればするほど、人に決められたことをやるより、自分で何かを発想し、構想し、表現することを楽しむようになります。
 
そして、そのような人は、人が決めた仕事をするということに極度の苦痛を感じるようになります。
 
そこには何の発展性もないし、ストレスが溜まるばかりだからです。
 
ところが、「仏教」はその何の発展性もない、ストレスが溜まるだけのことを要求してくるわけです。
 
ですから、私には「仏教」がどうしても悪魔的に見えてなりませんし、「釈迦」もまた悪魔崇拝者だったのではないかと疑わざるを得ないのです。
 
もっとも、「釈迦」はお経を唱えなかったという説もあるようですし、その説の方がどうやら有力なようです。もちろん、真偽の程は分かりません。
 
仏教に詳しい方、教えて下さい。釈迦はお経は唱えなかったんですよね?… – Yahoo!知恵袋
 
一応、私の見解としては、もし「釈迦」が本当に悪魔崇拝者であったならば、「お経」など全く唱えていなかったと思います。で、一般の信者たちには何の徳にもならない「お経」を唱えさせ、人々の時間とエネルギーをムダなところに投資させたということかも知れません。
 
あるいは、「お経」には何かヘンな霊物を呼び寄せる力があって、我々に伝えられている「お経」の意味の他に、もっと別の奥深い意味が隠されているという可能性もなきにしもあらずですね。
 
ということで、今日は「釈迦」が悪魔崇拝者だったのではないかと疑われる理由についてざっと簡単に述べてみました。
 
とにかく、このブログではこうして数々の状況証拠が集まってくると、いつも必ず決定的な証拠が見付かります。今までずっとそうでした。
 
「天皇」のことも然り、「プーチン」のことも然り、「小沢一郎」のことも然り、「地下の秘密施設」のことも然り、「UFO」のことも然り、「北朝鮮」や「核兵器」のことも然り……。
 
なので、いずれ近いうちに「釈迦」が悪魔崇拝者だったという決定的な証拠が見付かるのではないかという気がしないでもありません。
 
というか、いつか必ずその日が来るでしょうね。少なくとも、私はそう信じています。
 
ちなみに、祈りについては数日前に具体的に記事にしています。この記事を参考にして、皆さんもぜひ普段からお祈りしてみてください。
 
それだけでも、皆さん自身の人生、ひいてはこの世の中が大きく変わると思います。
 
何をどう祈ればいいのか、具体的な方法をお教えします。自分の人生も世界の運命も変える鍵がここにあります。
 
皆さんに限りない祝福がありますように。

19 Comments
  • つゆ草
    Posted at 22:55h, 25 4月

     ここで浮かぶのが、押し付けられた死生観とでもいうでしょうか。「死」はとても怖い、と死ぬことが恐れられています。死ぬという冷厳な事実をいずれ受け入れざるを得ない以上、私達には、「死ぬという大事な仕事」を最後にしっかり果たすためには、今をより良く生きる責務があります。不可抗力で、たとえ病の床にあったとしてもなお、より良く生きるのです。が、そこが置き去りにされて、祈祷師だお祓い(おはらい)だと、病気になれば闇の商売人が現れ、暗躍し、「死」においては、法外な価格を一連の儀式に覚悟させられざるを得ないというのは残念です。(お葬式も、四ツ谷の駅前にまで鐘の音がいつもよく響いてきますが、最寄りの教会堂では盛大に行われているようです。)
     葬儀、実にそれは遺族のものです、と実践神学の学者が言われました。葬儀では、神様が共にいてくださるよう、遺族にとって慰めが豊かであるよう、お祈りができれば十分のはずです。[詩編23編4節;死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。] 
     この短歌が、しみじみと、この歌人の人生を照らし合わされて、何かを伝えています。
     「 石四五個
       置きしのみなる父の墓
       渓(たに)の響きの
       絶えぬ岸の辺
           /三浦光世 」

  • じげもん
    Posted at 23:24h, 25 4月

    ここ数日の内容も素晴らしいですね。また一つ、世の中のカラクリを解き明かしていますね。
    美輪明弘は長崎市出身です。高校は、野球でちょっと有名なカトリックの男子校です。そういった環境が同性愛者になる原因だったのかもしれません。
    学生の頃に日本史を学習していて、『自分を神として崇めよ』と言っていた天皇が、なぜ仏を崇めるのか理解できなかったのですが、どちらも悪魔崇拝者だとわかると納得ですね。
    聖武天皇の頃は地震や飢饉、火山の噴火などが相次ぎ、聖武天皇自身も『自分の不徳の致すところ』といった声明を出しているそうです。それだけ悪魔の力が弱まっていたのでしょうか。そこで、外国から強力な悪魔教を日本に招き入れ、民衆に偶像崇拝をさせて悪魔を喜ばせ、同時に密教を取り入れていったのでしょうか。
     
    話は変わりますが、最近のニュースで気になっているのが総理官邸に落ちたと言われているドローンです。放射性物質を運んでおり、すぐに犯人が自首してきたそうですが、一連の流れが後藤健二の殺害事件と同じような匂いがプンプンするのは私だけでしょうか。
    犯人と思われる人物が書いたブログが見つかったとか言われていますが、その犯人がどんな人物かといった報道は、私はまだ見ていません。ある種の情報操作、情報統制でしょうか。何か事情があって犯人として名乗り出たのかもしれませんね。
    いずれにせよ、放射性物質が入手でき、首相官邸に飛行物体を飛ばせることができるのは日本政府しかないわけですから、この事件を機会にドローンの使用を規制する法律を作ろうという動きが見え見えだと感じています。例えばドローンで皇居を上空から撮影されたら、見られては困る悪魔崇拝の儀式が行われているのが知られてしまうとか…いつもの考えすぎでしょうか。
    民間人の頭上を飛ぶオスプレイはほったらかしで、自分たちの頭の上を飛ぶドローンに規制をかけようとする…まさしく悪魔の所業だと思います。

  • rapt
    Posted at 01:12h, 26 4月

    >じげもんさん。
    なるほど。実際にこの事件を機に法整備されることになるなら、皇居周辺の空撮を防ぐための予防策だったと考えられなくはないですね。
    実際、このブログを通して、天皇に対する疑いは国民の間でどんどん広がっていますし、これからも広がっていくと思いますので、皇居などの空撮を試みる人が出てきたとしても不思議ではありません。
    あるいは、悪魔崇拝者の中から裏切り者が出てきて、天皇が悪魔崇拝をしている証拠を撮影しようと考える人も出てくるかも知れません。
    出てきてほしいところですが……。

  • メイツ※
    Posted at 01:38h, 26 4月

    ラプト様いつも有難うございます。
    ここ数日の記事で、スーパーウルトラショックを受け、飲み込むのに大変時間がかっております。
    聖書を読み始める前に、(モルモン教の方からいただいた聖書を少し読んだことはあります。)ここまでスッキリした状態になれるとは、私は近道をし過ぎではないでしょうか。

    これからも祈りを続けます。
    世界平和LOVEANDPEACE

  • ぽんて
    Posted at 02:48h, 26 4月

    天皇に対しては、昔から疑問があったので数日凹んだ程度でクリアしました。

    自分は「何教か?」と聞かれたら「仏教徒」と答える程度で、家に仏壇も無い環境で育ったんですけど、釈迦も悪魔となってしまうと困ってしまいます。

    と言っても、多くの日本人と同じで、『宗教ごった煮』で生活してる訳ですが。

  • レイズナー
    Posted at 09:16h, 26 4月

    江原氏について記事にしました。
    http://blog.livedoor.jp/net_detective/archives/1025489629.html

    なぜか、白山の謎になっちゃいましたw

  • 五輪の書
    Posted at 10:50h, 26 4月

    座布団一枚wごった煮。
    まさにこれなんです。普段はこれなくせに宗教の話始めると途端にガラガラガッシャーンと閉ざす。今迄なんにも気にしてなかったくせに。なんでもいいのであれば素直になればいいのに。モルモン教はやばいと思います。末端は敬虔な感じはしますが上部は悪魔崇拝です。出来ることならraptさんオススメの聖書がいいんではないでしょうか。そこでraptさんに質問なのですが聖書は全て内容は一緒なのでしょうか?派閥によって都合のいい様に改変されたりしてないですかね。クレクレ君ですいませんがよろしくお願いします。

  • rapt
    Posted at 11:26h, 26 4月

    現在、一般に広く普及している聖書は「口語訳」と「新改訳」と「新共同訳」ですが、この三つの聖書の内容はそれほど大きな違いはありません。
    細かなところで、それぞれ意訳している部分はありますが、聖書の全体像を歪ませるようなものではありません。
    その中でも、「新共同訳」が最も日本語が美しく、読みやすいと思います。
    「口語訳」が意訳が最も少ないと言われていますが、少々、文章が固くて読みにくいです。
    読みにくいものを無理して読んでも、恐らくきちんと最初から最後まで読むことはむずかしいので、「新共同訳」をお奨めします。

  • 五輪の書
    Posted at 11:53h, 26 4月

    ご回答ありがとうございます。

  • たね
    Posted at 20:03h, 26 4月

    いつも貴重な御話有難御座居ます。御解説の聖書とは、旧新両約を指すのでしょうか。正/外/偽典いずれも多数の著者等に依る文書群原本時代から写本時代を経て印刷時代へ、更にローマ字・文語時代から口語時代諸訳時代へと、古代程無数の圧力・散逸・改竄を生延び、今日我々の目前に現存するものと理解して居ます。我々が聖書に接する恐らく唯一の窓口であろう口語和訳聖書と原本時代文書群との気の遠くなる様な落差、又恐らく全員が古代中東人であったであろう著者達の時代的・地理的思想限界に因る我々との距離も同様ではと暗澹たる心持を免れる時は有ません。私は未だ個人的に主として歴史的興味から新共同訳・ミルトス社逐語訳等を眺めて居る程度で、ネット時代とは云え不確実な自己検索を重ねるのも虚しく、多年に亙り聖書研究をされ御自身の思想体系を確立されたRAPTさんにこそ御教示願たい。所謂聖書の宿命たる諸限界に我々読者は如何なる覚悟を持って挑むべきなのでしょうか。又RAPTさんは如何にして此等限界を克服し御自身の思想の論拠とされたのでしょか。昨年来剃刀の如きRAPTさんの名論説群に唸り、納得し、時には理解出来ず乍も付て参ました。私自身も全世界・大自然の統一的普遍的理解を願って居り、悪魔崇拝の諸隣国状況を御尋したのも其一心からです。何卒御顰蹙御容赦の上御教示願たく存じます。

  • rapt
    Posted at 20:07h, 26 4月

    >たねさん。
    まあ、「聖書」を読めば分かります。
    嫌なら読まなくて結構です。
    テレビやアニメや映画や小説や雑誌など、悪魔に毒されていると分かっているものは平気で見ているのに、こと「聖書」となると、なぜそんなに怖がるのでしょうか。
    「聖書」を読んでおかしいと思ったらすぐにやめればそれで済むことではないでしょうか。
    悪いですが、神様もこの世の中できちんと働かれ、守るべきものは守って下さっているのです。
    http://rapt-neo.com/?p=19086
     

    「聖書」を一度読んでそれが分からないなら、それはその人がその程度の人だということです。
     
    (以下、転載)
    http://rapt-neo.com/?p=26115
    イエスの弟子たちも「聖書」を書く際には、イエスに倣って「比喩」を用いたに違いありません。ですから、「聖書」のほとんど全てが「比喩」で書かれてあると考えるべきなのです。
    ある意味、これは「神の言葉」を分かる人にしか分からないように封印しておいたとも言えます。
    つまり、日頃から神様にお祈りして、善良に生きている人でなければ、「聖書」の言葉を悟れず、「聖書」の封印を解くことができないようにしておいたということです。
    したがって、聖書を読んでアンチ・キリストになるような人は、普段から悪魔に近い生活をしているということを自ら立証しているようなものだということですね。
    聖書を読んだのに何も悟れず、何の感動も受けられず、キリストや聖書の悪口を言うような人は、例えその人が工作員であろうとなかろうと、その人たちはみんな悪魔のような心を持っているということです。

  • 美咲
    Posted at 22:13h, 26 4月

    RAPTさん、初めまして。
    このブログで今まで自分が疑問に思っていたことがスッキリしました。
    私はバリ人と結婚してバリヒンズー教に入信しました。というかさせられました。
    (バリヒンズーはインドのヒンズー教+土着の精霊崇拝が混ざったものです)

    私はこのバリヒンズーの儀式が気持ち悪くて仕方なかったのです。
    (私は結婚式の時に小鳥の血を額になすりつけられました。)
    それもこのブログを読んで納得しました。悪魔崇拝だったわけですね。
    バリヒンズーは「この世は善と悪が共存する」と考えます。ですから悪霊にも神様と同じ様にお供え物をします。
    一番身分の高い僧侶はパワーストーンやら王冠やらで派手に着飾っています。
    彼らから神に仕える者の清らかさは全く感じられません。
    輪廻転生に関しても独特です。なんと自分たちの家族の中だけで生まれ変わるのです。
    (例えば夫は曾祖父の生まれ変わりなのだそうです…)
    要するに同じカースト内で輪廻転生を繰り返す。僧侶は決して農民になることはない。
    全く上の者にとって都合の良い教えですね。本当に悪魔教そのものです。

    今は日本に住んでいるのでヒンズーとは関係ない生活を送れています。そして聖書も読み始めています。夫も興味を示しています。
    やはり真の教えは人の心を動かす力があるのだと思います。

  • nozomi
    Posted at 23:16h, 26 4月

    raptさん  
    こんばんわ、お忙しい中
    御丁寧なお返事ありがとうございます。

    先日「さゆふらっとまうんど」さんblogにてrapt
    さんのことを非常に勉強されておられると、
    ご本人の記事が出ておりました。
    最近のドローン事件についても深く追求されています。

    自らのblogにてドローンを不正選挙に対する我々の武器としてつかえないか、という発想の記事をのせており、またその後、これをうけた裏社会はドローンをつかった事件が引き起こされ我々が自由に扱えなくなるような法整備がされるだろうと、予測していた矢先この事件が起きました。

    じげもんさんへ、ぜひご参考ください。

    http://sayuflatmound.com/

    シュタイナーについてありがとうございます。
    よい、学問だとばかりおもっていました。
    幼児教育から学ぶ人も多いです。私もそうでしたし、幼児教育としてはすごいなとおもえるようなことがあり、実際こどもの成長において、
    よい影響が現れるのが実感としてあるので、
    真実はわかりませんでした。
    テレビは見せないとか、早期教育はかえって身体のバランスよい発達をさまたげているとか、
    想像力にはたらきかけるような素朴なつくられすぎていないおもちゃを与えるのがよい、
    とかできるだけ本物をあたえ本物にふれさせる
    とかCDの音ではなく実際の歌声であるとか、
    いろいろあるんですが、納得し実践していると
    おのずと、幸福な感覚になります。

    しかし勉強していくうち難解さをまして

    例えば色彩と光は盲人のまわりに存在しているが、盲人は必要な器官を備えていないので色彩と光を知覚することができない。それとおなじように人間のまわりには沢山の目に見えない世界が存在していて、人間は必要な器官を形成しさえすればこれらの世界を知覚することができるようになる、と説いています。

    胡散臭い、、、かもしれません。

    しかし目に見えない世界というのは、例えば神の存在であるとか、霊、はたまた悪魔、そのような世界なのかと、おもってみるとこの理論は真実かどうか見極められませんでした。

    釈迦も嘘をつくんですからね、、、。

    いいものとおもっても裏側があるんでしょうね。きっと。

    長くなりすみません。
    もし機会がありましたらシュタイナーの裏側もあばいてほしいです。

    幼稚園でいうと、それこそシュタイナーこども園やさまざまキリスト教系や、仏教系がありますね?仏教系は、帰りのご挨拶で、ののさまに手を合わせ、偶像崇拝させています。なにも考えず近くに入園させなくてよかったです。かといってキリスト教系ならどこでもよいのでしょうか?
    子をもつ者です。
    子を守りたいのです。よき知恵がありましたらお貸しください。
    もちろん、聖書を読むことから始めたいと思います。

  • pacimon
    Posted at 23:30h, 26 4月

    仏教については、以前からお経を唱えたり、仏像について疑問がありました。
    とても意味があるように思えなかったからです。
    特に、般若心経や仁王像やら千手観音などは見ただけで気味の悪さを感じます。
    そのような違和感、直感は悪魔を感じるセンサーだと気付きました。
    一方で、私はこれまで仏教の一部について共感する部分もあって、
    それは怒りや嫉妬などわるい感情に気付いて対処しようという考えでした。
    その部分は釈迦の教えだから価値があるのではなく、
    心理学のような客観的な観察結果であって、生活に役立つ経験則だと解釈することにしました。

    今回の記事は今まで見過ごしてきたグレーゾ—ンに自分で線を引く機会となりました。
    とにかく思考と行動以外を語っている超常的な部分は、自分には一切不要なので、
    今後はお寺で拝むこともきっとないでしょう。
    仏教だから偉人だからといって無批判に良い物と思う事なく、自分で考え吟味しようと思います。

    以上は、私の個人的な方針ですが、仏教に共感している人に整理のヒントになればと思い、
    コメント欄に投稿させていただきました。
    いつも更新ありがとうございます。

  • じげもん
    Posted at 00:35h, 27 4月

    NOZOMIさん
    情報提供ありがとうございます。この場をお借りしましてお礼申し上げます。
    これからじっくりと読ませていただきます。

  • nekohina
    Posted at 16:44h, 27 7月

    ブログ記事、端から頑張って読んでおります。興味深いです。

    で、質問です。 ブッダは、自分の像をつくったり拝んだりするな、と言った
    と聞いていたんですが・・・
    違うのでしょうか? 偶像崇拝を強要、のソースは?

  • rapt
    Posted at 17:03h, 27 7月

    >nekohinaさん。

    それこそ、そっちのソースは?

    釈迦が偶像礼拝を広めたことは誰でも知っている初歩的知識ですが(笑)

  • nekohina
    Posted at 22:59h, 27 7月

    釈迦、偶像崇拝 で検索を掛けるとたくさん出てきます。
    遺言で、「仏像等に頼らないで、法を頼りにしなさい」と弟子に言ったとか・・・

    たとえば、これはヤフー質問箱ですが
    http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1054898090

    ネットからしか情報を得ていないので、
    どれに確信を持っている、ということではありません。

    ただ、釈迦自体が広めたというのは どこにも書かれていないのです。
    日本に来た段階では すでに仏像ありき、だったのは知っているのですが・・。

  • ちょこ
    Posted at 22:46h, 17 4月

    釈迦もそうだったんですね。RAPTブログを読みはじめて今迄の概念がことごとく覆されています。(勿論、良い方へ! )今回の記事に江原啓之さんと美輪明宏さんの名前がありましたので、その流れで話をしますと、以前この二人がしていたスピリチュアルのテレビを見ていました。元々、精神世界や占いや引寄せや宇宙それらの類いが大好きと言う事もあり、それはそれは毎週楽しみにしている程この番組が大好きでした。〝ニューエイジ〟と言う世界に私は、どっぷりと長い間浸かった状態になります。(ちなみにニューエイジと言う言葉は最近知りました)
    番組を見ていて、事の成り行きの話は何だったか忘れてしまいましたが、MCの国分さんが「霊を呼べる場所ってあるんですか?」と言う事を尋ねていました。江原さんが「あります」と断言。「それは何処ですか?」江原さんは「それは言えません」とキッパリ言っていました。その時は、何が何だかさっぱりわからず私の頭に大きな?が浮かんでいましたが、今となっては、充分に分かります!場所もあそこだな。とまで分かる様になりました。(まっ、テレビでは絶対に言えない!!!(ー ー;)) 「あります」と言った時の江原さんと美輪さんの含み笑いの様な意味深な笑みが脳裏に今でも焼き付いています。

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