RAPT | やはり「釈迦」は紛れもない悪魔崇拝者でした。その確固たる証拠をお見せします。
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やはり「釈迦」は紛れもない悪魔崇拝者でした。その確固たる証拠をお見せします。

やはり「釈迦」は紛れもない悪魔崇拝者でした。その確固たる証拠をお見せします。

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昨日は「釈迦」が悪魔崇拝者だったのではないかと疑われる幾つかの理由を述べました。(上の画像は釈迦苦行像。)
 
偶像崇拝を強要し、輪廻転生はあると嘘をついた「釈迦」は、悪魔崇拝者だったのか。
 
で、いつか必ず「釈迦」を悪魔崇拝者と断定するだけの決定的な証拠が見付かるだろうと予測しましたが、早くもその証拠が見付かりました。
 
いやあ、本当に驚くべきスピードです。今回もまたある読者の方から情報を送っていただきました。本当にありがたいことです。
 
しかも、今回もあっけないほどその答えは単純明快なものでした。
 
とにかく、答えというものはいつも分かってみるととてもシンプル。ときに拍子抜けするほど単純明快です。
 
しかし、悪魔は我々にそのシンプルな答え(真実)を教えたくないので、わざと複雑で難解な話をして我々をずっと惑わしつづけてきたわけです。
 
この「釈迦」に関しても全く同じです。何しろ、仏教というのは、キリスト教と違ってこれといった正式な教典がない。
 
宗派によって別々の教典を使っているし、しかもその教典は「釈迦」本人が書いたものではなく、「釈迦」の弟子たちが書いたものなので、その教典がおかしいからといって「釈迦」までおかしいと断定することができませんでした。
 
例えば「密教」の教典は明らかに悪魔教そのものだということが分かりました(詳しくはこちら)が、それはあくまで「密教」を広めた「空海」や「最澄」がおかしいのであって、「釈迦」がおかしいわけではないという言い逃れの口実を作ることができました。
 
悪魔というのはそのようにして「情報」をいくつも分散して、これが間違っていても、あっちは正しいと言いながら、我々が常に誤った情報に振り回されるように仕向けてきたわけです。
 
しかしながら、仏教の創始者である「釈迦」が悪魔崇拝者だったとなれば、もう何も言い逃れはできません。仏教のどの宗派も間違いなく悪魔に毒されていると考えるべでしょう。
 
ですから、今まで仏教を信じていた人は、今日から即刻、仏壇を拝むのはやめた方がいいです。
 
ましてお経を唱えていた人は、絶対にもう二度とお経は唱えない方がいいでしょう。お経を唱えれば、間違いなく悪魔がやってきます。その理由はまた次回、詳しくご説明しようと思います。
 
以前、私はこのブログの中で「サナト・クマーラ」という悪魔についてのお話をしたことがあります。その記事が以下になります。
 
地底都市アガルタ (シャンバラ) が真の地獄であるという幾つもの証拠。
 
この記事を見ればすぐに分かりますが、「サナト・クマーラ」は紛れもない悪魔です。
 
で、この記事の中で私は「サナト・クマーラ」は悪魔の頭であるルシファーではないかという疑いさえ抱きました。
 
しかし、この「サナト・クマーラ」はどうやらルシファーではなさそうです。というのも、この「サナト・クマーラ」は悪魔のトップではなさそうだからです。彼の上にはさらに別の悪魔が存在していたのです。
 
では、それが何者なのかというと、「ブラフマー」と呼ばれる悪魔だそうです。
 
----------------(以下、ウィキペディアより転載)
 
サナット・クマラ、サナト・クマラ(Sanat Kumāra)は、ヒンドゥー教の神話・説話に登場する賢人にして、ブラフマーの精神から生まれた四人のクマーラ(チャトゥルサナ)の一人である。
 
----------------(転載ここまで)
 
ブラフマー01

〈ブラフマー〉

 
見ての通り、「サナト・クマーラ」は「ブラフマー」から生まれたとのこと。ですから、「ブラフマー」の方が「サナト・クマーラ」よりも格上ということになります。
 
では、この「ブラフマー」とはどんな存在なのか。ウィキペディアから見てみましょう。
 
----------------(以下、ウィキペディアより転載)
 
ブラフマー(Brahmā, 梵: ब्रह्मा )は、インド神話、ヒンドゥー教の神。仏教名「梵天」
 
三神一体論(トリムルティ)では、三最高神の一人で、世界の創造と次の破壊の後の再創造を担当している。 ヒンドゥー教の教典にのっとって苦行を行ったものにはブラフマーが恩恵を与える。
 
4つのヴェーダを象徴する4つの顔と4本の腕を持ち、水鳥ハンサに乗った赤い肌の男性(多くの場合老人)の姿で表される。手にはそれぞれ「数珠」、「聖典ヴェーダ」、「小壷」、「笏(しゃく)」を持つ。 配偶神は知恵と学問の女神サラスヴァティー(弁才天)である。
 
----------------(転載ここまで)
 
いまいちよく分かりませんが、「4つの顔と4本の腕を持ち、水鳥ハンサに乗った赤い肌の男性」というのですから、言ってみれば、化け物みたいなものですね。悪魔らしい奇怪な姿をしているとも言えます。
 
しかも、この「サナト・クマーラ」には仏教名までちゃんとあるそうで、その名も「梵天」。
 
bonten
〈梵天〉
 
 
ヒンズー教の神様なのに、仏教の神様でもある……ここからしてもう既に怪しいですね。悪魔の匂いがプンプンしますね。
 
しかし、問題はこの後です。このウィキペディアの記事には、その後、このようなことも書かれてありました。
 
----------------(以下、ウィキペディアより転載)
 
経典の説くところでは、釈迦牟尼仏が悟りを開いた時に、その悟りを人々に語るように説得したのが梵天であり、この事を梵天勧請と呼ぶ。
 
後に梵天は釈迦牟尼に帰依し仏法の守護神となる。

 
----------------(転載ここまで)
 
なんと。悪魔であるはずの「梵天」が「釈迦」に自らの悟りを人々に伝えるように説得したとのこと。しかも、この「梵天」がなぜか「釈迦」に帰依して、仏教の「守護神」となったそうです。
 
「悪魔」が仏教の「守護神」になってしまったというのです。これはちょっとマズイですね。
 
まさかそんなはずがない。もしかしたらこの話は、一部の仏教徒の間でのみ広まっている話ではないか。
 
私も思わずそう疑ってしまったのですが、どうもこの話、仏教徒の間ではしごく一般的に広まっている説話のようです。以下のような記事がありました。
 
----------------(以下、こちらから転載)
 
ゴータマ・ブッダの<初転法輪>(最初の説法)には梵天(ブラフマー神)が関わったと伝えられている。
 
ブッダが最初に説法をしたのは開悟して実に5週間後であった。 彼はその間菩提樹などの樹下にいたのである。
 
開悟の後最初の一週間彼は菩提樹下で解脱の喜びと楽しみをかみしめながら座禅していた。
 
第2週目にはアジャパーラ榕樹(バンヤン)の下に移り7日間を過ごした。
 
第3週目にはムチャリンダ樹の下で7日間を過ごした。その時大雲が起こり7日間雨が降り寒風が吹いた。
 
第4週目には ラージャヤータナ樹の下で7日間を過ごした。
 
第5週目には アジャパーラ榕樹の下に移った。 この時<梵天勧請>という現象(奇跡)が起こったと伝えられる。
 
即ち梵天(ブラフマー神)が出てきてこのまま静観したまま死のうとするブッダに三度も生きて説法をしてくれるよう懇願したというのである。
 
梵天(ブラフマー神)の三度にわたる熱心な懇願によって、ブッダはようやく説法を始める気になったというのである。

 
梵天(ブラフマー神)とは宇宙の創造神であり、ヴェーダ時代のインドの最高神である。 <梵天勧請>説話を記した原始仏典もある(「説法の要請」相応部経典6・1・1)。
 
この物語は大乗仏教でブッダが神格化される前に既にブッダを神格化しようとする動きがあったことを示唆している。
 
その経典にはブッダの悟りと説法躊躇の理由が簡潔に述べられているので興味深い。 経典の述べていることを見よう。
 
「わたしの悟り得たこの法は深遠で、理解しがたく、さとりがたい。 静寂であり、卓越していて思考の領域を越える。 微妙であって、ただ賢者のみよくそれを知ることができる。
 
ところが、世の人々は五つの感覚器官の対象を楽しみとし、それらを悦び、それらに気持ちを高ぶらせている。
 
それらを楽しみとし、それらを悦び、それらに気持ちを高ぶらせている人々にとって、実にこの道理、即ちこれを条件としてかれがあるという縁起の道理は理解しがたい。
 
また、すべての存在の静まること、すべての執着を捨てること、渇欲をなくすこと、欲情を離れること、煩悩の消滅すること、それが即ち涅槃であるというこの道理も理解しがたい。
 
もしわたしが法を説いたとしても、他の人々がわたしを理解してくれなかったらそれはわたしにとって疲労であるだけだ。 それはわたしにとって苦悩であるだけだ、と。
 
・・・ わたしが苦労して悟り得たものを、いま人に説いて何の得るところがあろうか。
 
貪欲と憎悪とにうち負かされた人々にとって、この法をさとるのは容易ではない。
 
常識の流れに逆らい、精妙で、深遠で、理解しがたい。微妙なこの法を、貪欲に汚され、幾重にも無知の闇におおわれている人々はみることがない。」
 
ブッダはこのように考え、人々に説法はしないでそのまま涅槃に入る(死ぬ)か、このまま静観しようとした。
 
その時宇宙の最高神である梵天(ブラフマー神)が現れブッダにあなたがこのまま説法をしないでいると世界は闇になる。
 
世の中には優れた能力を持った人もいるからどうか説法を開始して下さいと懇願する。
 
ブッダはこの梵天の熱心な懇願を三度も受けて説法を開始する気になった、と言うのが梵天勧請説話である。
 
このドラマチックな梵天勧請説話は仏教徒に一般的に信じられている。
 
しかし、「三明経」という原始仏典ではブッダは梵天(ブラフマー神)の存在と信仰を明快に否定している。 この方がその後のブッダの一貫した思想と矛盾しない。
 
----------------(転載ここまで)
 
この説話は「仏教徒に一般的に信じられている。」とのこと。つまり、仏教徒の間ではこの話が定説として広く認められ、信じられているというわけです。
 
とはいえ、そのすぐ後に「『三明経』という原始仏典ではブッダは梵天(ブラフマー神)の存在と信仰を明快に否定している」とあります。
 
つまり、一部の仏教徒の間では「釈迦」と「梵天」とは無関係であると言われているわけですね。
 
なので、この「三明経」についてざっと調べてみたのですが、どうやらこの記事を書いた人はとんでもない勘違いをしているようです。
 
「三明経」においても釈迦は「梵天」の存在と信仰を明快に否定していません。むしろその逆で、「三明経」でも釈迦は「梵天」のことを神として扱っています。
 
以下、「三明経」のウィキペディアの記事です。
 
----------------(以下、ウィキペディアより転載)
 
■場面設定
 
ある時、釈迦は500人の比丘と共にコーサラ国のマナサーカタに赴き、アチラヴァティー川に差し掛かった。
 
そこでは、バラモンであるポッカラサーティの弟子ヴァーセッタと、同じくバラモンであるタールッカの弟子バーラドヴァージャが、互いの師の梵行の優越性について口論していた。
 
決着がつかない2人は、釈迦に2人の師のどちらの梵行を行えば梵天へと至れるのか問う。
 
釈迦は、2人の師、ひいては「三明」(三ヴェーダ)に通じているとされる歴代のバラモン達の中で、存命中に梵天に至ったことがある者がいるのか問う。2人は否定する。
 
釈迦は存命中に梵天に至れない者は、死後に梵天に至ることもないと述べる。
 
そして梵天へと至る梵行として、十善戒、六根清浄、正念正智、三衣一鉢による満足、五蓋の除去(五禅支の生成)、四禅について述べ、これによって、色界までの有頂天である色究竟天へと至れると述べる。
 
2人は法悦し、三宝への帰依を誓う。
 
----------------(転載ここまで)
 
このように「三明経」の中でも、釈迦は「梵天」のことを神として扱い、「梵天」に至ることを教え諭しています。
 
つまり、「釈迦」が「悪魔」と一つになるように説教したわけです。しかも、バラモン教という悪魔教を信じる信徒たちに。なんとも恐ろしいことです。(バラモン教とは古代ヒンズー教のこと。ヒンズー教が悪魔教であることは今まで何度も話してきました。例えばこちら
 
バラモン教 – Wikipedia
 
そのため仏教徒たちは、今でも仏像に向かって必死で「偶像崇拝」をして、さんざん神様を冒涜して「悪魔」を喜ばせなければならないわけでしょう。
 
で、この世の楽しみは全て捨てて、苦行をして、(最上の画像のように)この世の中で地獄のような人生を生きて、あの世でも地獄に行け、というわけです。
 
これではその辺のカルトと同じですね。一見、とても良いことを説いておきながら、その実、最後に待っているのは地獄の生活と、地獄のあの世というわけですから。
 
やっぱり釈迦は「悪魔」の申し子だったようです。
 
で、私は昨日、こんな疑いも記事に書きました。
 
「お経」には何かヘンな霊物を呼び寄せる力があって、我々に伝えられている「お経」の意味の他に、もっと別の奥深い意味が隠されているという可能性もなきにしもあらずですね……と。
 
どうやらこの疑いもあながち間違いではなかったようです。その理由はまた次回、詳しくお話しします。
 
次回の記事を読めば、この日本に住まう神々がみんな悪魔だったということが、さらにはっきりとお分かりいただけると思います。
 
あと、私が「聖書」を読むように奨めているのを見て、「聖書」を読んでも本当に大丈夫なのか、「聖書」も悪魔に改ざんされているのではないかと質問をしてくる人がよくいます。
 
「テレビ」や「アニメ」や「映画」のように悪魔に毒されている分かっているものを普段から平気で見ていながら、「聖書」だけは読むのにビクビクするというのは、相当、悪魔に洗脳されているとしか言いようがありませんね。
 
そんなに悪魔に洗脳されるのが怖いのなら、まずは「テレビ」や「アニメ」や「映画」を見るのを先にやめるべきでしょう。
 
それに、もし「聖書」が悪魔に改ざんされているのなら、どうして「聖書」を読んだ私がこんなに次々と悪魔の正体を暴くことができるのでしょうか。
 
私が「悪魔」から遣わされた工作員で、単に「悪魔」の正体を暴いている振りをしているだけ、と思う人はどうぞご自由にそう思っていて下さい。
 
そんな知能レベルしかない人はこちらも相手にしたくはありませんので。
 
そして、その人はその低い知能レベルによって本当に大切なことを見逃してしまうことになるでしょう。
 
で、私の言葉を信じて「聖書」を読んだ人は、これからの余生を幸せに送れるはずですし、もう既にそのような人がこのブログの読者の中から次々と現れていますね。
 
それについてはここ数日のコメント欄をご覧いただけばすぐに分かることですし、コメントを書いた人以外にも、聖書を読んで楽になった、不安がなくなった、涙が出た、感動した、とのメールを送ってくださる方が続出しています。
 
もっとも、信じるか信じないかはあなた次第ですけれども……。
 

9 Comments
  • つゆ草
    Posted at 23:30h, 26 4月

     個人の感想ですが、「死」は「穢れ」ではないはずだ、と思っておりました。
     病床にずっとあり、小学二年生の2月に亡くなってしまった女の子がいました。息をひきとった明くる日、東京は雪でした。「空から、◯ちゃんのお手紙がふってきたんだね。」と、二年生のお友達が言ったそうです。その子のお通夜のことを思い出しますと、「お清めの塩」などは、ちょっと違わないかと。「穢れ」だなんてあり得ませんし、とても悲しくさせられます。
     浸透している、こうするものだという様式も、何に発しているものなのか。
     真理は我らを自由にするはずです。
    (ヨハネによる福音書 8: 32
    「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」)

  • pacimon
    Posted at 23:42h, 26 4月

    仏教については、以前からお経を唱えたり、仏像について疑問がありました。
    とても意味があるように思えなかったからです。
    特に、般若心経や仁王像やら千手観音などは見ただけで気味の悪さを感じます。
    そのような違和感、直感は悪魔を感じるセンサーだと気付きました。

    一方で、私はこれまで仏教の一部について共感する部分もあって、
    それは怒りや嫉妬などわるい感情に気付いて対処しようという考えでした。
    その部分は釈迦の教えだから価値があるのではなく、
    心理学のような客観的な観察結果であって、生活に役立つ経験則だと解釈することにしました。

    今回の記事は今まで見過ごしてきたグレーゾ—ンに線を引く機会となりました。
    とにかく思考と行動以外を語っている超常的な部分は、自分には一切不要なので、
    今後はお寺で拝むという事もないでしょう。
    仏教だから偉人だからといって無自覚に良い物と思う事なく、
    自分で考え吟味しようと思います。

    これまでこのブログを読ませていただいて思っている一つの基準は
    生命や人の自然な営みに反発するものは総じて悪魔的だと感じます。
    性的な儀式などは命をもてあそんでいるとしか思えません。

    以上は、私の個人的な方針ですが、特に仏教に共感している人の整理のヒントになればと思い、
    コメント欄に投稿させていただきました。

    毎日の更新、ありがとうございます。

    (先ほどひとつ前の記事を復習していて、同じようなコメントを投稿したかもしれません。
    こちらの記事についてなので、一方は削除いただいてかまいません。)

  • カシスオレンジ
    Posted at 23:50h, 26 4月

    いつも真理を教えてくださり、有難うございます。
    「梵天勧請説話」を見て、聖書の「マタイによる福音書」の「4章 勧誘を受ける」を思い出しました。
    イエスさまも四十日間断食した後、悪魔から「三度」誘惑を受け、サタンを退けました。
    断食の日数、誘惑の回数が類似していることから、ふと、同じ状況だったのではないか、
    もしかしたら誘惑の手口も同じだったのかもしれないと想像してしまいました。
    最初は肉欲への誘惑、次に神さまの御言葉に逆らう誘惑、最後に栄光への誘惑。
    「創世記」の「3章 蛇の誘惑」を読んでも、誘惑の手口が似ているように思いました。
    誘惑に勝利されたイエスさまと誘惑に敗れた方。まことに恐ろしいことだと思いました。
    また、下記のことばを見つけました。
    「わたしは知恵を深めてこの地上に起こることを見極めようと心を尽くし、昼も夜も眠らずに努め、
     神のすべての業を観察した。まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。
     人間がどんなに労苦し追求しても、悟ることはできず、
     賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟ってはいない。」(コヘレトの言葉8章16~17節)
    大変失礼いたしました。

  • rapt
    Posted at 00:49h, 27 4月

    >カシスオレンジさん。
    私も若干、釈迦は修行のすえに悪魔の誘惑に負けて、イエスは勝ったのではないか、という感じを覚えました。
    もしかしたら釈迦も、本来は神様に遣わされるべき預言者か何かだったのかも知れません。
    しかし、悪魔の誘惑に負けて、偶像崇拝を広めることになってしまったのではないか……。
    そんな風にも読み取れますね。
     
    あと、ご紹介して下さったコヘレトの言葉ですが、読者の皆さんに誤解がないよう補足しておきますが、これは別に人には何も悟ることができないという意味ではなく、人間が全てを悟ったと思っても、神様の真理は奥が深いので、まだまだ悟るべきことは山ほどある、という意味です。
    ですから、釈迦が言ったように「完全な悟りの境地に到達した」ということはあり得ないということです。

  • カシスオレンジ
    Posted at 02:16h, 27 4月

    RAPTさん コメント有難うございます。
    「三度」という語句がどうも気になりまして確証もなく書き込んでしまいました。
    もっと調べてから書き込むように改めます。
    またコヘレトの言葉の箇所で誤解が生じるような書き方をして、誠に申し訳ございませんでした。説明不足でした。
    まさに、RAPTさんが記述いただいたとおりです。
    RAPTさん、有難うございました。大変失礼いたしました。

  • ひろ
    Posted at 19:33h, 27 4月

    「仏の顔も三度まで」ということわざがありますが、仏が本当に慈悲深い存在であるならば、三度まで、という制約は設けないだろう(笑)と子供の頃すごく疑問に感じてましたが、仏陀が悪魔崇拝者であるなら、「仏の顔も三度まで」はいい得て妙ですね。(^_^;)

  • yoshihiro ohmori
    Posted at 15:29h, 01 5月

    このサイト、大変勉強になります。私はイスラームが一番いい宗教だと思っていましたが、日々の礼拝を考えると実行できませんでした。そこでキリスト教にしています。このサイトを読んで仏教はサタンだと確信しています。日本人は霊的なことに無頓着なのでますますサタンの思うつぼだと思います。せめてネット上くらいは抵抗しないとやばいでしょう。せめてこのサイトが、神様に守られますように、イエス様の御名よって祈ります。アーメン。

  • ちょこ
    Posted at 22:49h, 09 4月

    私の家の近所に大きな神社があります。
    小さい頃そこで近所の子達とよく遊んでいました。
    木々に囲まれた境内や掃除の行き届いた感じは、神聖なものに映っていました。朝出かける時には、神社の方向へ一礼していました。鳥居を潜り中央は、神様が通る所だからとスピリチュアルにハマっていた時に知ったので、それは神様に対して失礼だ。と思い、左右のどちらかの端を歩いていました。
    所がどっこいですね!
    私のピュアな心を騙しやがって!!!って感じです。もう今では、スルーです。
    日本は、ものすごい数の神社仏閣があって悪魔のシールドが強固に張られていますね….
    日々、目覚めています。それもRAPTブログに出会えたからです。私は、なんて幸運なんだろうと思います。RAPTさんに感謝。
    そして導いてくれたイエス様にも。
    みんなRAPTブログに出会えればいいのに。と切に思います。
    そして、一人でも多くの方がこの世の真実に目覚める事を祈ります。
    生きやすい住みやすい世の中になればいいですね。

  • Françoise Arnoul
    Posted at 12:18h, 14 11月

    >それに、もし「聖書」が悪魔に改ざんされているのなら、
    >どうして「聖書」を読んだ私がこんなに次々と悪魔の正体を暴くことができるのでしょうか。

    そうなんですよね。
    「羊は羊飼いの声を知っている」という言葉が聖書にありました。
    もし仮に、悪魔によって聖書が改ざんされてたとしても、どれだけ悪魔が天才的なウソつきであったとしても、
    天の父(ヤハウェ)のほうが、羊を導くのははるかに上手です。
    天の神は、正しい人をちゃんと正しい方向へ導いてくれているので、その辺は心配ないと思います。

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