RAPT | 「本能寺の変」の黒幕はイエズス会と島津家と毛利家だった可能性大。または千利休がドルイド教徒だったという確たる証拠。
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「本能寺の変」の黒幕はイエズス会と島津家と毛利家だった可能性大。または千利休がドルイド教徒だったという確たる証拠。

「本能寺の変」の黒幕はイエズス会と島津家と毛利家だった可能性大。または千利休がドルイド教徒だったという確たる証拠。

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昨日はかの有名な「関ヶ原の戦い」が単なる戦国武将どうしの戦いではなく、実は「イエズス会」と「エリザベス一世」との代理戦争であったというお話しました。
 
織田信長と徳川家康とイエズス会の因縁の関係。関ヶ原の戦いは「イエズス会」と「エリザベス一世」との代理戦争でした。
 
それと同時に、「織田信長」が実は「大和族」であり、「イエズス会」にうまく利用されていたフシがあったというお話もしました。
 
で、この「織田信長」。最初のうちは「イエズス会」にも好意的で、現代のクリスチャンの間でも「織田信長」はイエズス会の教えを受け入れて、敬虔なクリスチャンになったとさえ言われています。
 
とはいえ、「織田信長」は何万人もの人々を殺したような残虐な人物です。
 
ですから、しごく普通に考えれば、彼が敬虔なクリスチャンになったとは到底考えられません。
 
彼は生涯を通し、自分のことを「第六天魔王」と称していたようですが、この「第六天魔王」こそが彼の本当の正体なのです。(詳しくは上にリンクした昨日の記事をご覧ください。)
 
で、この「織田信長」はその後、「本能寺の変」で明智光秀に討たれて死んでしまったわけですが、このとき彼は「備中高松城の戦い」を仕掛けていた最中でした。
 
備中高松城の戦い – Wikipedia
 
「織田信長」がこの「備中高松城の戦い」で何をしようとしたのかというと、一言で言えば、「毛利家」を叩き潰そうとしていました。
 
家臣である「豊臣秀吉(この当時は羽柴秀吉)」を遣わして、「毛利家」の配下にあった「備中高松城」を攻撃させたのです。
 
ところが、この攻撃の最中に「本能寺の変」が起き、「織田信長」が暗殺されてしまった。ウィキペディアにもこう書かれてあります。
 
----------------(以下、こちらから転載)
 
備中高松城の戦い(びっちゅうたかまつじょうのたたかい)は、日本の戦国時代におきた戦。
 
天正10年(1582年)に織田信長の命を受けた家臣の羽柴秀吉が毛利氏配下の清水宗治の守備する備中国高松城を攻略した戦いである。
 
秀吉は高松城を水攻めによって包囲したことから、高松城の水攻め(水責め)とも呼ばれる。
 
水攻めの中に主君である織田信長が明智光秀に討たれる本能寺の変が起きた。
 
その報を聞いた秀吉はただちに毛利方と和睦を結んで、城主清水宗治の切腹を見届けた後、明智光秀を討つために軍を姫路へ引き返した。 
----------------(転載ここまで)
 
なので、単純に考えれば、「織田信長」を殺したのは「毛利家」ではないかと考えられるわけです。
 
しかしながら、現代の日本を支配しているのがこの「毛利家」なので、我々国民にこの真実を知られないよう、歴史をあれこれと複雑に改ざんして、我々を煙に巻いてきたわけでしょう。
 
もっとも、「織田信長」を殺した黒幕は「毛利家」だけとは言えません。
 
先日もお話しました通り、「毛利家」は「イエズス会」と深いつながりを持っていました。
 
なぜそんなことが言えるかというと、「毛利家」は「イエズス会」のフランシスコ・ザビエルと結託して「大内家」を滅ぼし、長州(山口県)を自らの支配下に置いているからです。(詳しくは以下のリンクをご覧ください。)
 
フランシスコ・ザビエルと田布施システムの怪。明治維新は「清和源氏」の末裔による権力獲得のためのクーデターでした。
 
で、この「イエズス会」は鹿児島の「島津家」とも結託していたわけですが、それから数百年後、この「島津家」と「毛利家」が手を組んで「明治維新」を起こし、現代の日本を支配するようになりました。
 
「明治維新」は北朝から南朝へのすり替えではなく、北朝の国造りのための基礎固めだった可能性大。
 
「本能寺の変」で「織田信長」を殺した黒幕は「イエズス会」ではないかという説がこの世には広く出回っていますし、恐らくこの説に間違いはないでしょう。
 
ただし、「イエズス会」のみを黒幕とするのも、これまた本当の真実を述べたことにはなりません。
 
真の黒幕は「島津家」と「毛利家」と「イエズス会」の三者です。彼ら三者が結託して、裏切り者の「織田信長」を殺したのです。少なくとも、そう考えるのが妥当だと言えます。
 
で、「織田信長」が暗殺された後、「豊臣秀吉」はすぐさま「毛利家」を攻撃するのをやめて、彼らと和睦。
 
要するに、「豊臣秀吉」も「島津家」と「毛利家」と「イエズス会」の連合軍とグルだったと考えられるわけです。
 
で、皆さんも御存知の通り、その後、「豊臣秀吉」が日本を自らの統治下に置くわけですが、このように彼が勢力を伸ばしていったのも、全ては「イエズス会」の後押しがあったからと考えられます。
 
世間一般では、「豊臣秀吉」は最初から最後まで「イエズス会」を迫害していたかのように言われていますが、実際のところ、「豊臣秀吉」は最初から「イエズス会」を迫害していたわけではありません。
 
最初のうち、彼は「イエズス会」の布教活動を容認していたのです。
 
----------------(以下、こちらから転載)
 
豊臣秀吉は元来織田信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた。
 
1586年(天正14年)3月16日には大坂城にイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを引見し、同年5月4日にはイエズス会に対して布教の許可証を発給している。
 
しかし、九州平定後の1587年7月24日(天正15年6月19日)、筑前箱崎に滞在していた秀吉は、平戸から秀吉に謁見するため訪れていたポルトガル側通商責任者(カピタン・モール)ドミンゴス・モンテイロとコエリョに対して、宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡してキリスト教宣教の制限を表明した。
 
具体的には神国である日本でキリスト教を布教することはふさわしくないということ、長崎をイエズス会領とし民を集団で信徒にし神社仏閣を打ち壊していることを禁止、宣教師の20日以内の国外退去などと同時に、この法令が南蛮貿易を妨げるものでなく、布教に関係しない外国人商人の渡来に関してはなんら規制を設けないことが示されている。
 
ただ、この機に乗じて宣教師に危害を加えたものは処罰すると言い渡しており、強制的にキリスト教への改宗をさせることは禁止しているが、個人が自分の意思でキリスト教を信仰することは規制しておらず、一定の領地を持つ大名がキリスト教信者になるのも認可制(秀吉の許可が必要)とされたが、これも禁止されてはいない。
 
また、下層の民については自由であることを定め、建前としては信仰の自由を保障するものであった。
 
----------------(転載ここまで)
 
このように、「豊臣秀吉」は最初のうち、イエズス会による宣教活動を容認していました。
 
しかしながら、先日もお話しました通り、「サン・フェリペ号事件」をきっかけにキリスト教への迫害を強め、最終的には「イエズス会士」を含む26人ものキリスト教徒を処刑してしまいました。
 
サン=フェリペ号事件 – Wikipedia
 
しかも、「豊臣秀吉」はこれと並行するような形で、一つの不可解な心変わりを見せています。
 
「豊臣秀吉」がもともと茶人の「千利休」と懇意であったことは有名な話です。
 
実際、彼は「千利休」を招いて「茶の湯」を開催したり、自らも「黄金の茶室」を作ったりしていました。(最上の画像はその再現)
 
黄金の茶室 – Wikipedia
 
ところが、その後、彼は「千利休」と仲違いして、切腹まで命じるようになりました。
 
一体「豊臣秀吉」にどんな心境の変化があったからといって、あれほど仲の良かった「千利休」に切腹を命じるようになったのでしょうか。
 
実を言うと、この「千利休」も「イエズス会」であったと考えられます。
 
そのため、「豊臣秀吉」は「イエズス会」に対して容認から迫害へと回るのと同時に、「千利休」に対しても同じように容認から迫害へと心変わりを見せたものと考えられるのです。
 
実のところ、この「千利休」も「本能寺の変」の黒幕の一人として挙げられる人物の一人です。そして、この説にもそれなりの信憑性があります。
 
----------------(以下、こちらから転載)
 
本能寺の変と呼ばれる信長暗殺事件の最大の謎は、何故信長が5月29日に上洛したのか、ということにある。
 
信長は本来は、この日に上洛する予定ではなかった。
 
あと数日で、西国出陣の軍勢が整う手筈になっており、信長はこれを率いて安土城を発つ事になっていた。
 
それにもかかわらず、わずかな共廻りを引き連れただけで上洛した。
 
その為に光秀につけ込まれ、命を落とすハメになった。
 
信長の率いる軍勢は、おおむね6月5~6日頃には出陣出来る見通しだった。
 
光秀の方は5月17日に近江の坂本城に戻って、さらに丹波の亀山城に帰還している。
 
直ちに1万3千の軍勢が整えられた。
 
一方の安土では、5月21日に嫡男の信忠が2千の手勢を率いて京都の妙覚寺へ入った。
 
信長上洛に先だって警護体制を整えておこうというものだった。
 
信長が何故、軍勢が整う前に京都へ入ったのか。
 
信長は、到着した翌日、6月1日に宿舎の本能寺で茶会を開いている。
 
と言うのも信長は茶道具のコレクターでもあったからである。
 
ここには公家衆、堺の豪商達を招いて催した。安土から持ってきた38種類の名物茶器を披露し、茶会の後は酒宴となった。
 
ここで注目する人物が一人、混じっていた。博多の豪商鳥居宗室(とりいそうしつ)という男だった。
 
ご存じの通り信長は天下の三名器「初花」「新田」「楢柴」が有名で、信長は「初花」「新田」の二つをすでに持っていて、最後の「楢柴」は鳥居宗室が持っていたからである。
 
信長は交渉して、この「楢柴」を譲って貰う積もりだった。
 
それと言うのも、鳥居宗室は6月2日には、京都を発つ予定だったからである。
 
それで信長は予定を繰り上げて京都に来た。
 
今まで信長と鳥居宗室は面識がなく、信長は是非会って「楢柴」の交渉をしたいと思っていた。
 
この心理を千利休が巧みに利用した。
 
利休の手引きによって、軍勢が整わないうちに本能寺に誘い出されたという推理も成り立つ。
 
利休は信長の信頼も厚く、茶の湯の師匠的存在として信長近くにあった。
 
では、利休の動機は何であったのか。
 
その背後には堺の商人衆がいた。
 
堺の商人衆は、この先、信長を野放しにしておくと、いつ難題を押しつけられるかという不安と殺戮を平気で行う行動に恐怖感を覚えていた。
 
----------------(転載ここまで)
 
このように「織田信長」を京都におびき出すことのできる人物として、「千利休」が挙げられるわけです。
 
で、この転載記事では「千利休」の背後に「堺の商人」たちがいたと書かれていますが、この「堺の商人」の背後にはさらに「イエズス会」がいたのではないかともこの後の記事には書かれています。
 
織田信長のキリスト教政策、本能寺の変考
 
つまり、「千利休」は「イエズス会」とグルだったというわけですが、私はそれどころか「千利休」自身が「イエズス会士」だったのではないかと考えています。
 
というのも、「千利休」から茶を習った多くの戦国大名が、なぜかキリスト教に改宗し、キリシタン大名となっているからです。
 
----------------(以下、こちらから転載)
 
日本人キリシタンの柱石で、有能な戦国大名でもあった高山右近は、禅宗の一様式と言われた茶の湯をたしなみ、千利休の高弟七人のうち2番目に数えられるほど茶の湯の世界に受け入れられた。
 
その後、牧村長兵衛、蒲生氏郷および織田有楽など利休七哲に数えられた茶人で大名でもある3人が洗礼を受けキリシタンになった。
 
(中略)
 
アルメイダとフロイスは、茶の湯に出会った機会は異なったが共に茶室を清浄で地上の安らぎを与える場であることを認めた。
 
とりわけ司祭の資格を有するフロイスにとっては、茶室はキリシタンを集めミサ聖祭を捧げるに足る神聖な場所であった。
 
(中略)
 
高山右近は、天正2年(1574)日本布教長フランシスコ・カブラルから教理の再教育を受けてキリシタンに目覚め、自ら卓抜な説教者となり多くの人々を改宗しキリシタンに導いた。
 
高山右近は、茶の湯を禅宗の一様式としてではなく芸道としてとらえ、この道に身を投じてその目的を真実に貫く者には数寄が道徳と隠遁のために大きな助けとかると悟り、日ごろ付き合いのあった利休の高弟7人衆(利休七哲)に機会あるごとにキリシタンの教えを聞かせ、牧村長兵衛をはじめ蒲生氏郷、織田有楽など多くの茶人をキリシタンに導いた。
 
----------------(転載ここまで)
 
このため、「千利休」は実はクリスチャンだったのではないかと解く学者もいます。
 
しかしながら、「千利休」はクリスチャンではない、と説く人も同じく大勢います。
 
なぜなら「千利休」はクリスチャンというより、「陰陽師」に近いと考えられるからです。詳しくは以下の動画をご覧ください。
 


 
このように「千利休」は、「クリスチャン」のようでありながらも実は「陰陽師」だった。
 
ということは逆に、彼が「イエズス会士」だった可能性は大いにあると考えられます。
 
なぜなら「イエズス会」は本物のキリスト教徒ではなく、悪魔教徒である「ドルイド教徒」に他ならないからです。詳しくは以下のリンクをご覧ください。
 
人工地震3.11を引き起こした真犯人は、国常立尊とスサノオを神と崇める「出雲族」だった可能性大。
 
そもそも、日本に陰陽道を広めたのは「秦氏」ですが、「秦氏」もまたドルイド教の僧侶であることが分かっています。
 
ハロウィンももともと悪魔崇拝者たちの行う生贄儀式でした。ハロウィンとバアルと秦氏と大正天皇との奇妙なつながり。
 
なので、「千利休」がもし本当に陰陽師であったなら、彼が「ドルイド教徒」であったということは疑いようもない事実なのです。
 
(ちなみに、上の動画では「千利休」が「徳川家康」から送られた刺客だったのではないかと解説されていますが、私はこの説には異を唱えたいと思います。「千利休」に切腹を命じた秀吉に対して、その子息が怒って家康と手を組んだと考えた方が妥当でしょう。)
 
さらに、「千利休」は「豊臣秀吉」に向かって、自分は「黒」が好みだと語っていたとのこと。
 
----------------(以下、こちらから転載)
 
そうなんです。
茶道には陰陽道があったのです。
知りませんでした。
 
万事何事も続けていれば無駄を見つけてうるさく感じるものです。その無駄を省いて省いて省き込みますと・・・最後はこの色のごときものになるのです この黒こそが私の理想とする色であり 理想の生き方なのでございます。
 
利休は「黒」を愛しました。
秀吉は対照的に派手さを好み、黒を嫌いました。
親交の深かった二人の間に亀裂が入ります。
 
頭を下げて守れるものもあれば、頭を下げる故に守れないものもございます。
 
利休は秀吉に頭を下げることなく
切腹を申付けられます。
そのとき利休は「茶の支度はできている」とだけ答えました。
そして晴明井の傍らで一生を終えたのです。
 
----------------(転載ここまで)
 
「ドルイド教」の僧侶はその後、ベネチアの「黒い貴族」と名乗り、バチカンに食い込んで「イエズス会」として活動しはじめました。
 
で、その「イエズス会士」はみんな黒い衣服を身にまとっているため、イエズス会の総長は「黒い教皇」とも呼ばれています。
 
このように、「ドルイド教」の象徴は「黒」。
 
で、「千利休」はことさら「黒」が好きだと主張。
 
このことから見ても、「千利休」が「黒い貴族」と称するドルイド教徒の一員だった可能性はとても高いと考えられます。
 
さらに言うなら、「千利休」から「茶の湯」を学んだ弟子の一人に「山上宗二」という茶人がいます。
 
山上宗二 – Wikipedia
 
現在、「山上宗二」の命日には、「山上宗二忌」なる「茶の湯」の催しが行われているらしいのですが、この催しの際、なぜか古代ケルトの「太陽十字」が掲げられています。(出典はこちら
 
DSCN3916
 
この「太陽十字」は「ドルイド教」から出たものでしたね。
 
ドルイド教の僧侶の末裔である「島津家」も、この「太陽十字」を家紋として使っています。(詳しくは以下のリンクをご覧ください。)
 
日本の歴代首相も天皇もみんな古代ケルトの悪魔教「ドルイド教」の僧侶の末裔です。
 
これだけ見ても、「千利休」がドルイド教と深い関わりがあることは一目瞭然です。
 
ところが、「イエズス会」からバックアップを受けていたはずの「豊臣秀吉」がその後、なぜか「イエズス会」を迫害し、さらには「イエズス会士」である「千利休」に切腹を命じた。
 
果たして彼がこのように心変わりした理由は何だったのでしょうか。
 

9 Comments
  • クラビトーカー
    Posted at 22:33h, 18 10月

    リチャード輿水氏が、講演会でしばしば
    徳川よりも豊臣ヒイキの発言をしているのを不思議に思っていたのですが、本日の記事で合点がいきました。これは自分が天皇派であると宣言しているに等しいですね。rapt様あっぱれです。

  • ファルコン
    Posted at 22:57h, 18 10月

    関ケ原が、イエズス会とエリザベス女王の代理戦争であった程度に、世界史と日本史が深くかかわっているのであれば、1591年の千利休切腹は、1588年にスペインの無敵艦隊がイングランドに敗北したアルマダの海戦が関係しているのかもしれないですね。

  • ファルコン
    Posted at 23:31h, 18 10月

    追加です。

    秀吉にしろ家康にしろ、本当にイエズス会やイングランド国教会を信奉していたというより、その援助を期待するという政治的側面が大きかったと思われるので、アルマダの海戦以降その海洋政策を縮小せざるを得なくなったスペインの状況を聞き、イエズス会信者の千利休を腹心として抱えることが、デメリットになる可能性を、秀吉は当然考えたと思われます。サンフェリペ号事件で宣教師を殉教させたのは、そのような流れがあったからではないでしょうか。

  • pacimon
    Posted at 00:31h, 19 10月

    ごく最近、この太陽十字が、惑星の記号で「地球」を表すという情報を知りました。
    「○」が魂で、「+」が物質という意味だとのことでした。
    何かの参考になれば幸いです。

  • アモリフェラ
    Posted at 22:04h, 19 10月

    面白いお話でした。テレビ・ドラマで本能寺の変の時、やたらと素早く秀吉が現場に駆けつけますが、島津・毛利・イエズス会とグルだったならば、それは当然ですよね。それとルイス・フロイスがイエズス会員だったのを最近知りました。千利休が「黒」好みだったのも、わびさびとは別問題で、イエズス会員だったからなのですね~。秀吉の異様なまでの金ピカ趣味は「黒」の反動から来ているのかも知れません。嫌いなことの正反対をワザとするような…もともとはお百姓だったので、元来は質素な人だったのかも知れませんね。
    クラビトーカーさんのコメントでRK氏のお話が出て来たので思い出しましたが…。RK氏も「天皇がすり替え」であることは認めているようです。ずいぶん若い頃の動画で「あはは、今の天皇は4代目でしょ。」とあっさりと発言している動画を見ました。ということは、知っていながら意図的に天皇家の陰謀には絶対に触れない偏った陰謀論者というわけです。その代りにロックフェラーとジャパンハンドラーズをやたらと叩く陰謀論者というわけです。公平ではありません。RK氏も島津・毛利・イエズス会なんかと関係があるのかな?などとちょっと思ったことです。
    日本史の勉強になりました。UP有難うございます。

  • hiyorigeta
    Posted at 23:27h, 19 10月

    非常に興味深い記事でした。
    何か月か前、明智光秀の子孫の方が「本能寺の変」についてお話されているのをテレビで見ました。明智光秀と徳川家康とは繋がっていたようですね。内容はほとんど忘れてしまいました。私の祖先の一人に明智光秀の部下がいたようです。大昔の海賊も祖先にいたようです。でも、我が家は全く普通の庶民です。知り合いに秦さんと言う人や、土師さん、また有名な大名と同じ姓の人たち(珍しい名前なので、多分一族)もいましたが、皆庶民でした。権力者として残っているのは一族の中の一部なのでしょうね。

    「モンスーン文書と日本(17世紀ポルトガル公文書集)」という本を持っていますが、当時も交易は盛んだったようですね。日本への航海権は大変な利権だったようです。日本人、シナ人の奴隷も多かったようです。

  • ヒロ
    Posted at 01:16h, 21 10月

    いつも読ませて頂いてます。
    スレチで申し訳ございません。
    以前からずっと疑問だったことがありました。
    スイスは何故世界の金融の中心なのか。
    四方を囲まれているのに、何故スイスは永久中立国として成り立つのか。
    RAPTさんの記事を読んでやっと疑問が解けました。
    スイスは古代ケルト人のラテーヌ文化の中心地だったんですね。
    悪魔崇拝者にとっては聖地の様な場所なんでしょうね。

  • Posted at 12:50h, 21 10月

    色々な悪魔信仰があるんですね。陰陽道とドルイド教の繋がり、また妙見信仰や役行者、出雲族との繋がりや、それらと現代も密接につながっていたことを伺い知り驚くばかりです。
    この記事の一つ前の記事に戻って読みたいのですが、何かの障害があり、長い時間待ちましたが開くことが出来ません。

    リゾート開発とか、リゾート列車の企画は、景色の良い土地に、当然ながら値段の高いホテルの支店が置かれており、それらは妙見信仰、陰陽道と関係があるのかも知れないと、先日調べて知りました。
    風光明媚な土地が観光地として魅力的なのでしょうが、山の自然が美しいと称賛される所は、調べれば大抵が山岳信仰の修験道や密教、真言宗にゆかりのある地でした。出雲にも関連する土地でした。妙見信仰も一緒に出てきたりします。何だか気持ちが悪くなりました。そういう場所を目指して旅行し、パワースポット巡り等をされるのでしょう。悪い気を呼ばなければ良いがと他人事ながら少し気になりました。

  • Ojin
    Posted at 22:04h, 24 10月

    大阪の大和川を渡った南側に、堺市の百舌鳥付近を始め南大阪には天皇陵古墳やたくさんの古墳がありますが、何故こんなにあるのだろうとずっと考えておりました。堺の港は様々な貿易でイエズス会も出入りしていたとある本で読みました。もちろん島津家の名も出てきています。奈良から大和が移住し堺の地で栄えた…というような内容で、それを証明するようにヨーロッパ会の単体で書かれた最古の日本地図にはSakai .kyotoとは記載があれど大阪や江戸などの記載がない。貿易が盛んになり堺が都市化し大和が移住したというのは納得です。あと堺にはいくつかの街道があります。竹内街道、紀州街道、熊野街道、西高野街道など…この西高野街道をずっと歩けば高野山へと繋がっている。あの真言宗の聖地です。しかも何故か西高野街道の途中、堺の中には立派な出雲大社大阪分祀が佇んでいます。RAPTさんはすでにご存知かもしれませんが、堺にも色々な謎が隠れているように思えて仕方ありません。話は逸れますが、(2014年5月27日、高円宮家次女・典子さまと出雲大社神職・千家国麿氏とのご婚約が内定。)
    (神事の中心的皇室の秋篠宮佳子様が大々的にキリスト学校に行ったこと)に関してはどういう意味があるのでしょう?もしすでに記事にされているのに私が見落としていたらごめんなさい。

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