RAPT | 鹿児島(薩摩)と山口(長州)と高知(土佐)はドルイド教で結ばれた「太陽派」であり、「月派」を倒すために明治維新を起こしました。
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鹿児島(薩摩)と山口(長州)と高知(土佐)はドルイド教で結ばれた「太陽派」であり、「月派」を倒すために明治維新を起こしました。

鹿児島(薩摩)と山口(長州)と高知(土佐)はドルイド教で結ばれた「太陽派」であり、「月派」を倒すために明治維新を起こしました。

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ここ数日、「明治維新」のカラクリを解き明かしていますが、昨日までの記事を要約するなら、明治維新は「イエズス会」と「島津家」と「毛利家」による策謀であったということになります。
 
「明治維新」は北朝から南朝へのすり替えではなく、北朝の国造りのための基礎固めだった可能性大。
 
フランシスコ・ザビエルと田布施システムの怪。明治維新は「清和源氏」の末裔による権力獲得のためのクーデターでした。
 
つまり、「イエズス会」のフランシスコ・ザビエルが日本にやってきたのは、キリスト教を布教することが本当の目的だったわけではなく、「島津家」と「毛利家」による日本支配を確立するためだった、とも考えられるわけです。
 
そもそも、フランシスコ・ザビエルが日本にやってきたとき、彼はまず鹿児島(薩摩)の守護大名「島津貴久」に会いにいきました。
 
当時の薩摩を牛耳っていたのが「島津家」であった以上、「島津家」に挨拶に行くのが一応の礼儀です。なので、彼のこの行動はまったくもって当然のことと言えます。
 
しかし、昨日の記事にも書きましたように、「イエズス会」と「島津家」はもともとグルであり、最初から「イエズス会」が「島津家」に会いに行くつもりだったという可能性は十分に考えられます。
 
実際、「ヤジロウ」がザビエルを最初に招いたところは、鹿児島市の「祇園之洲町」というところでした。
 
祇園之洲町 – Wikipedia
 
「祇園」とくれば「祇園祭」です。
 
で、「祇園祭」は京都の「八坂神社」のお祭ですが、この「祇園之洲町」にもなぜか同じ名前の「八坂神社」があります。
 
----------------(以下、こちらから転載)
 
「祇園之洲」という地名は江戸時代に八坂神社(祇園社)東側の海岸を埋め立てたことに由来する。
 
----------------(転載ここまで)
 
で、「祇園祭」を最初に始めたのは「秦氏」ですが、「島津家」もまた「秦氏」の末裔でしたよね。
 
で、「秦氏」というのは、ゾロアスター教を神道という形で日本に広めた氏族であり、ゾロアスター教の源流はもともと「ドルイド教」でした。
 
「聖徳太子」も「平清盛」もゾロアスター教徒であり、ロスチャイルドの先祖です。
 
イルミナティという悪魔崇拝組織が、現実に存在しているという確固たる証拠。
 
で、フランシスコ・ザビエルが属していた「イエズス会」もドルイド教。(詳しくは以下のリンクをご覧ください。)
 
人工地震3.11を引き起こした真犯人は、国常立尊とスサノオを神と崇める「出雲族」だった可能性大。
 
ちなみに、「島津家」もドルイド教。
 
日本の歴代首相も天皇もみんな古代ケルトの悪魔教「ドルイド教」の僧侶の末裔です。
 
で、「ドルイド教」は「牛頭神=スサノオ=バアル」を一つの神として拝んでいるわけですが、「祇園祭」ももともとは「牛頭神=スサノオ=バアル」のために行われていたお祭りでした。(詳しくは以下のリンクをご覧ください。)
 
京都の「祇園祭」はもともと牛頭神バアルに幼子を生贄として捧げる悪魔崇拝儀式でした。
 
ハロウィンももともと悪魔崇拝者たちの行う生贄儀式でした。ハロウィンとバアルと秦氏と大正天皇との奇妙なつながり。
 
このように、「島津家」と「イエズス会」には「秦氏 = ドルイド教 = 牛頭神 = スサノオ = バアル = 八坂神社 = 祇園」という幾つもの共通点があるのです。
 
こうなってくると、「イエズス会」のフランシスコ・ザビエルが「島津家」の住む鹿児島に最初にやってきたのは単なる偶然ではない、ということは明らかです。
 
ザビエルは間違いなく「島津家」に会うことを目的に鹿児島にやってきたのです。
 
さらに、ザビエルはこの後、「山口」「大分」「大阪」「長崎」に宣教に出かけていくわけですが、昨日も書きました通り、ザビエルが「山口」に行った直後、「大内家」が山口から追い出され、代わりに「毛利家」が山口を支配するようになりました。
 
で、その後、「毛利家」と「島津家」が手を組んで徳川家と「関ヶ原の戦い」で戦い、さらに「明治維新」を起こした。
 
で、「島津家」も「毛利家」もどちらも「清和源氏」の末裔。
 
「清和源氏」は「北朝」であり「出雲族」ですが、先ほども言いましたように、「島津家」は「秦氏」の末裔でもあります。
 
一方の「毛利家」も、もともと「大和族」の血を引いた氏族ですが、後に「大和族」を裏切って「出雲族」に与するようになりました。
 
なので、「島津家」も「毛利家」も純粋な「出雲族=北朝」ではない。
 
ある側面からみれば、彼らは「大和族=南朝」であるとも言えます。
 
なので、「明治維新」によって北朝から南朝にすり替えられたという話は、ある意味では正しいように見えるわけです。
 
しかし、実際のところ、この話は真実ではありません。今日はこの話をさらに具体的に整理してみましょう。
 
「明治維新」を起こしたのは「薩摩藩(鹿児島県)」と「長州藩(山口県)」ですが、「明治維新」に深く関わった「藩」がもう一つあります。
 
「土佐藩(高知県)」です。ここから「坂本龍馬」や「岩崎弥太郎」が輩出されました。
 
しかし、この「高知」にはフランシスコ・ザビエルは宣教には行っていません。
 
なので、「明治維新」は「イエズス会」とは何も関係がないのではないかと思われそうですが、実は高知にも「イエズス会」とおぼしき宣教師が渡来しています。
 
高知ではいわゆる「サン・フェリペ号事件」という事件が起こりました。
 
サン=フェリペ号事件 – Wikipedia
 
この事件があった当時、豊臣秀吉は「バテレン(神父という意味)追放令」を出して、キリスト教の布教を厳しく禁じていました。
 
ところが、そこにキリスト教の宣教師がスペインから船に乗って「高知」にやってきた。
 
そのため、秀吉とこの船に乗った宣教師たちとの間に一悶着あった、というのがこの「サン・フェリペ号事件」の顛末です。
 
つまり、高知にも実は「イエズス会」とおぼしき人たちが渡ってきているのです。
 
ただし、この「サン・フェリペ号」に乗っていた船員たちが「イエズス会」だったのかどうかは定かではありません。
 
どのネットの記事を見てみても、その船員が「イエズス会」だったとは書かれておらず、キリスト教徒だったとしか書かれていないからです。
 
とはいえ、「フランシスコ・ザビエル」と「スペイン」には明らかなつながりがあります。
 
どんなつながりかというと、実はこれまた「ドルイド教」なのです。
 
実を言うと、ザビエルも「バスク人」であり、スペイン人も「バスク人」。そして「バスク人」とは「ケルト人」の末裔なのです。(詳しくは以下のリンクをご覧ください。)
 
about Celt ケルトの世界観
 
で、ケルトといえば、「ドルイド教」の聖地ですよね。
 
このようにザビエルとスペインも見事に「ドルイド教」でつながってしまうのです。
 
ですから、秀吉がキリスト教徒を迫害したのは、彼がキリスト教嫌いだったからではなく、ドルイド教嫌いだったからとも考えられるわけです。
 
つまり、ドルイド教徒たちが日本を支配するのを阻止するために、ドルイド教徒たちを迫害したと考えられるのです。
 
ということは、もしかすると豊臣秀吉も、徳川家康と同じく「教皇派=月派」と手を組んでいて、「太陽派」による日本支配を阻止しようとしていたのかも知れません。少なくともその可能性が考えられます。
 
(徳川家康が「教皇派=月派」と手を組んでいたということについては、以下のリンクをご参照ください。)
 
地下鉄丸の内線とGHQと徳川家康とエリザベス女王とイエズス会の奇妙なつながり。東京の地下には教皇派の秘密施設も眠っている。
 
このリンク記事には、もともとエリザベス女王が「徳川家康」に大量の武器を提供していたという動画が貼ってありましたが、著作権上の問題でしょう、その動画が削除されてしまったようです。
 
いずれにせよ、エリザベス女王が「徳川家康」に大量の武器を提供し、そのおかげで徳川家康が「関ヶ原の戦い」で勝ったというのは紛れもない事実です。
 
で、エリザベス女王は「教皇派=月派」、つまりは「ツクヨミ」を神とする氏族なので、「関ヶ原の戦い」の後、日本は「月派」の支配下に収まることになってしまった。
 
関ヶ原の戦い – Wikipedia
 
これにて「太陽派」が日本での勢力を失ってしまったというわけです。
 
つまり、「北朝=出雲族」も「南朝=大和族」もどちらも勢力を失ってしまったのです。
 
さらによく調べてみると、「徳川家康」が天下を取っていた江戸時代、歴代天皇はみんな「月輪陵・後月輪陵」という墓地に埋葬されています。
 
月輪陵・後月輪陵-検証編- – 歴史あるトコ、興味あるトコ、行きませう!
 
見ての通り、この墓地の名前には「月」という言葉が使われています。
 
これはどこからどう考えても「月派」の墓地でしょうね。
 
つまり江戸時代の天皇たちは、みんな「ツクヨミ」を神と崇める「月派」だった可能性があるというわけです。
 
しかも、この「月輪陵・後月輪陵」にある天皇の墓を見てみると、日本のトップの墓とは思えないほど、かなりぞんざいな扱いを受けていることが分かります。
 
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〈月輪陵・後月輪陵〉

 
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〈月輪陵・後月輪陵にある墓の配置図〉

 
本当にこれが「天皇」の墓なのかと思えるほど、狭い敷地にかなり窮屈に並べられています。
 
これだと、その辺の一般の有力者の墓とそんなに変わりがないのではないかと言いたくなるぐらいです。
 
実際、徳川家康は「出雲族」だったわけですから、「ツクヨミ」など屁とも思っていなかったのでしょう。
 
だからこそ、徳川家は終始、「月派」の天皇と常にバチバチと戦い、こうしてぞんざいにその亡骸を扱っていたわけでしょう。
 
しかし、「太陽派」である「徳川家」も「毛利家」も「島津家」も、こうして「月派」の天皇を擁立する状態に痺れを切らし、互いに手を組んで「明治維新」を起こした。
 
で、実際に「月派」を倒すことができたので、彼らは同じ「太陽派」として大喜びした。
 
ところが、その後、彼らは自分たちのことを「出雲族=北朝」だと強く自覚しはじめ、皇室を完全に「北朝」にすり替えてしまった。
 
戦国時代から現代に至るまでの日本の歴史は、おおよそこんなものではないでしょうか。
 
今後、さらに詳しく検証していきます。
 

11 Comments
  • hiyorigeta
    Posted at 00:09h, 12 10月

    >バスク、フランスとスペインにまたがる大西洋側ピレネーの一地方で、バスク人口の80パーセントかたはスペイン側に住んでいるとのこと。(その他、南アメリカに少数が点々と住んでいる。スペインの南米支配の折に移っていったものであろうとのこと。)

    以上は古い記事からですが、興味深いのはバスク語についてです。

    >文法上の動詞変化はニュアンスに富み、文構造は日本語と同じ形をなす。それはインドヨーロッパ語系統から全く外れた言語。
    そのために、バスク地方は、特に日本向けの宣教師を夥しく出した。彼らは他のヨーロッパ人とは比べものにならず早く、日本語の文法構造、動詞変化を正確に理解するとのこと。共通点があるから。

    フランシスコザビエルもこの近くの人だったと聞いていましたが、バスク人だったのですか。

    >この不思議なバスク語の本性については、学者たちもまだ分かっていないと言葉を濁す。

    これは大分以前に読んだことなので、今はどうなのでしょう?

    インドのサンスクリット語などには、ギリシア語や古いラテン語との関連が多く見られるそうです。

    また、バスクには、日本の博多織の帯の模様そっくりの布があるようです。他のヨーロッパでは見られないものだそうです。

    ところが、バスク人の頭蓋骨、血液を調べると、典型的ヨーロッパ系。最近テレビでこの地域に関するものを見ましたが、テレビで見た限り、ヨーロッパ人ですね。全然アジア人っぽくなかったです。

    ずっと昔、どこかで繋がる何かがあったのだろうと思っていました。
    今日も、興味深い記事をありがとうございます。ワクワクしました。

    天皇の御墓ですが、江戸時代、それ以前もそうかもしれませんが、ずっと小規模なお墓だったようですが、孝明天皇のは立派なものらしいです。「遠い崖 アーネストサトウの日記抄」9巻に、サトウが泉涌寺を訪れたときの記述がありました。
    今、確かめてみたらやはり「慶喜がこれを造営させたのだという」と書かれていました。

  • Posted at 07:48h, 12 10月

    教科書では教えられなかった部分の歴史こそが、知りたかった部分で、大変興味深いです。
    南朝、北朝の区別が即月派、太陽派であり、教皇派、天皇派 大和派、出雲派ロスチャイルド、という風にはいかないというのがなかなか、、それでも少しずつ読み進めています。京都御所の天皇からの大転覆を図るならそういう流れになるのかと思うと同時に
    、ドルイド教の執着には本当に無気味さを感じます。アイルランドのケルトという小さい島からケルト十字が島津家に伝わったという流れには、なにかやはり必然性というかなりゆきの成立のための理由があったのだと思います。精霊が昔から住むというケルトの風土、、、
    祇園はシオン、八坂ヤサカや弥栄イヤサカあるいはは植作ウエサクという言葉、地名はイサクに繋がるのではとどこかのブログで読んだことがありました。 
    イエズス会が広めたドルイド教の流れとキリスト教伝播の流れとか、複雑に絡み合っているのかもしれません。日本もその昔は妖怪や精神風土を重んじる清潔を好み、のどかで穏やかな人柄の人間が多い国だというのが、海外から訪れた人が受けた印象だったらしかったですね。ラフカディオハーンことが小泉八雲もそういう日本を好んで島根県に住んだとききます。

  • Posted at 08:32h, 12 10月

    この土地の人々はどのくらいの文化教養の程度で、宣教をしやすい土地であるかというをイエズス会では本部へ小まめに伝えていた文書が残っているとNHK歴史番組で以前紹介していました。
    日本は精神世界を重んじ、更に死後の浄土や三途の川、さいのかわら等死後の世界への下地もあったので受け入れられやすかったのかもしれないと思います。

  • アモリフェラ
    Posted at 09:54h, 12 10月

    イエズス会というからにはキリスト教なんだろうと思っていましたが、さにあらず!テロリスト集団なのでした。イエズス会の入会式で修道士は「血の宣誓」という誓いを立てさせられます。以下『太田龍+デーヴィッド・アイク 2人だけが知っている世界の秘密』P.226より引用します。

    私は機会ある限り、密かに、あるいは公然と、指示されたとおりに、すべての異教徒やプロテスタント、自由主義者をこの地上から根絶させ撲滅するまで、徹底的に戦い続けることを誓い、宣言する。相手がどのような年齢、性別、健康状態でも決して容赦はしない。忌まわしき異教徒を吊し上げ、疲弊させ、茹で上げ、皮を剥ぎ、首を絞め、生きたまま地中に埋める。女の腹と子宮を裂き、子供の頭を壁に打ちつけて粉砕し、呪うべき者たちを永久に根絶させる。
    公然と行えないときには陰に隠れ、毒を盛った杯を、短剣の刃を、絞殺のためのロープを、鉛の弾丸を使う。相手の地位、品格、権威にかかわりなく、彼らの状況がどのようなものであろうと、公私にかかわらず実行する。私はつねに教皇の、あるいは聖なる修道会であるイエズス会の長の代理人の命じるままに動く。(引用終わります。)

    あちゃ~、これのどこがキリスト教なんじゃい!まさに悪魔教の極致ではないですか?こんな人たちがやって来たら、バテレン追放令出したくもなりますわね~。up有難うございます。

  • hiyorigeta
    Posted at 13:20h, 12 10月

    現在、日本の上層部の多くは、薩摩、長州、藤原家の子孫の方たちらしいので、ほぼ目的は達せられたということになりますね。

    明治維新での土佐の立場はちょっと微妙だったかもしれません。「遠い崖」の9巻最後の方で、以下のような内容があります。

    >明治元年4月10日、南部弥八郎(旧薩摩藩士)が訪ねてきて(アーネストサトウのもとに)、政治の話をした。(幕末期の政治について)

    >南部によると、1868年、大部分の公卿と大名は、幕府との和解を望んでいた。そういう大名の中に、後藤象二郎によって代表される土佐も混じっていた。本当にやる気があったのは、薩摩、長州、岩倉、この三者だけであった。幕府との問題が戦争によってでなく、話し合いによって解決されるようなことにでもなれば、自分たちは終わりであることを、この三者はよく知っていた。

    >薩摩を動かしていた中心人物は大久保であった。伏見での砲声をきくまで、大久保は非常に不安な時間を過ごした。勿論、戦争の結果がどうなるか、あらかじめ予想することは出来なかった。確かな事は、幕府の士官たちに戦うつもりがなかったことである。彼らは木の陰に身を隠したり、地上に伏せたりしなかがら、部下にもこれに見習うことを命じたにすぎなかった。

    >南部は気晴らしのために、「復古録」という題で、革命と、そこに至るまでの事件の経過について書いてみたそうである。南部はその原稿を取り寄せ、私に貸してくれると約束した。

    何年か前に以上のことを読んだ時は、ちょっと吃驚でした。

    また、「遠い崖」のどの部分であったか忘れましたが、岩倉がサトウに「王政復古の陰謀は過去にも何度かあった。私の祖父はそれで失脚した。」と語る場面がありました。

    幕末の在日英国外交官で、パークス公使とともに、明治天皇に最初に謁見したミッドフォードの回想録によりますと、貴族の多くは虚弱で青白く、貧血で幽霊のように見えたようです。
    しかし、意外と心は明るく機敏な人物もいたらしい。
    その中でも岩倉は最も柔軟な思想の持ち主であり、西園寺の三兄弟とその他数人は生まれながらの政治家であったと書かれています。

  • 通りすがり
    Posted at 15:16h, 12 10月

    今回の記事とは関係ありませんが参考になれば幸いです。
    江戸時代、六本木ヒルズは毛利家の屋敷だったようです。

    http://www.rekishijin.jp/rekishijinblog/ando/12-0116/

  • じげもん
    Posted at 23:12h, 12 10月

    サン=フェリペ号事件について私も調べてみました。
    何よりも気になったのは、サン=フェリペ号事件をきっかけにして、長崎で二十六聖人が殉教したということです。
    二十六聖人の中にイエズス会は3人、他はフランシスコ会が多かったようです。
    ちなみに、フランシスコ会の会章にも、3本の槍のようなものがささった心臓が描かれています。
    おそらく、サン=フェリペ号には、イエズス会やフランシスコ会、そのほかの会派の人たちが一緒に乗船していたのではないでしょうか。そのため、各資料とも『キリスト教』という表記にしたのかも知れません。
    ただ、国宝に指定されている大浦天主堂(イエズス会)は、二十六聖人の殉教地、西坂の丘を向いて建てられています(創建当時は殉教地が特定できておらず、方向が少しずれているようですが)。殉教した聖人たちのために建てられた教会なのです。来年度は世界遺産に認定されるようです。
    以上、サン=フェリペ号とイエズス会の密接な関連を示す状況証拠と言えるかもしれません。
     
    ちなみに、ほとんどの場合『26聖人』と記載せず、『二十六聖人』と漢字で記載されているようです。
    考えすぎかもしれませんが、『二』+『十』+『六』=『十八』=『6+6+6』ということでしょうか。

  • Posted at 23:59h, 12 10月

    植作という地名はありませんでした。嘘情報を申し訳ありませんでした。
    京都鞍馬寺の5月のウエサク祭という奇祭があるそうで、サナトクマラや仏教、シャンバラ等RAPTさんのすでに調べられた内容のことであったようです。

  • Posted at 00:12h, 13 10月

    「今この日&あの日あの時」というサイトに、ウエサク祭とは? という見出しでウエサク祭について書いてあり、そこでは「5月の満月の夜。今では世界各地でウエサク祭りが行われている。」とあり、アジア各地で行われてきた祭りだと書かれていました。

  • キリークラッペ
    Posted at 16:46h, 13 10月

    こんにちはraptさま。
    誠さんの挙げられているラフカディオハーンでございますが、ウィキペディアの方にも、ドルイドへの傾倒などと書かれている人物でございます。
    私見ですが、オカルトを世に広めている有名人はすべて惡魔崇拝の徒であらうと思います。
    H.P.ラブクラフト、H.P.ブラヴァツカヤ、水木しげる、永井豪、etc。
    ここらへんの血縁はあまり聞いたことがないので、調査しがいがありそうです。乞御期待。

  • Posted at 00:03h, 14 10月

    キリークラッペさんに言われてWikipediaに目を通してようやく気づいたことでしたが、島根県すなわち出雲国とのこと、八雲のペンネームも八雲立つという出雲にかかる枕詞に因むとされる、だそうです。となれば実際にドルイド教とも関わってきそうですね。

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