21 4月 キリスト教最大のタブーその二。聖書に書かれた奇跡はほとんど奇跡ではない。
前回はキリスト教最大のタブーである「イエス・キリストの復活」についてのお話をしました。
○キリスト教最大のタブー。イエス・キリストの「肉体」が生き返ったという大嘘。
一言で言うと、イエス・キリストの復活は「肉体」の復活ではなく「霊体」の復活だったということです。
しかし、「天皇派」の悪魔崇拝者たちは、私がこうしてブログの中で「聖書」のことを書くのをとても嫌がっているので、私が少しでも「聖書」の話題を持ち出すと、必ずといっていいほど嫌がらせのメールやコメントを送りつけてきます。
しかも、私が「聖書の解説書」なんか読むなと言った矢先に、何人もの人たちが聖書の「解説書」や「解説者」について、どう思いますかとか、自分はこう思いますとかいった、つまらないコメントやメールを書いて送ってきました。
もっとも、その「解説書」によって聖書がよく分かるようになったとか、聖書に興味を持つようになったかと言うのならまだ分かるのですが、その「解説書」に「聖書」は間違いだと書かれている、その「解説書」の方が「聖書」より正しい、みたいことを書いてくる人がいるのですから、呆れてものも言えません。
つまり、私が記事にした内容を全く理解していないわけです。
とりあえず、そのコメントのうちの一つは、一昨日のコメント欄(こちら)にきちんと残しておきましたので、彼らのその低能ぶりをとくとご覧下さい。工作員のレベルもついにここまで落ちてしまったか、という感じです。
やればやるほど恥をかくだけなのに、全く懲りない人たちです。コメントを削除された人たちは、恥をかかずに済んだだけ有り難いと思ってください。
はっきり言いますが、私は「聖書」を読むことでこの世界のカラクリをほぼ完全に解き明かすことができました。
しかし、あなたが「聖書」よりも正しいとするその書物を読んで、この世界のカラクリを解けたでしょうか。
まあ、百年かけても無理でしょうね。
ということで、今日もまた彼らが書いてほしくない「聖書」のネタを書きます。
意外にも前回の記事は受けがよくて、アクセス数もそこそこ伸びました。
日本人は宗教嫌いとよく言われますが、決してそんなことはないということです。
とはいえ、前回の記事は、クリスチャンにとってはかなりぎょっとするような内容だったと思いますし、中には私のことを「異端」もしくは「危険人物」と思ったクリスチャンもいたかも知れません。
何しろ「キリストの復活」をある意味で否定したわけですからね。
その一方で、クリスチャンでない人にとっては、前回の記事は胸がすっきりするような内容だったのではないでしょうか。
聖書に書かれてある通り、イエス・キリストの「肉体」が生き返ったと信じるのは、いくら何でも無理がありますからね。
これは「キリストの復活」だけに限らず、聖書に書かれた他の奇跡についても同じことが言えます。
聖書には絶対に起こり得ないような奇跡がたくさん書かれてありますが、当然、現代人にはそれらの奇跡を心から信じることはできないと思います。
「聖書」をたくさん読んできた私にさえそれはできません。
こんなことを言うと、多くのクリスチャンたちから「いや。イエスは神の子だったから奇跡を起こせたのだ」と言われそうですが、私から言わせてもらうと、そんな現実味のない信仰を持っているから、教会の信者の数もどんどん減っているのです。
もっとも、祈りによって病気が治ったという程度の話であれば、現代でも実際にあちこちで起きていることなので、全く信じられない話でもありません。
もちろん、そういった奇跡を体験する人は稀ですが、それでも祈りによって自分や身近な人の病が治ったという話はよく耳にします。祈りによって癌が治ったという人も実際にいます。
しかしながら、以下のような話を聞いて、皆さんは素直に信じることができるでしょうか。
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夕方になったので、弟子たちがイエスのもとにきて言った、
「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください」。
するとイエスは言われた、「彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい」。
弟子たちは言った、「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません」。
イエスは言われた、「それをここに持ってきなさい」。
そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。
みんなの者は食べて満腹した。パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。
食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった。
(マタイによる福音書14章14~21節)
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「パン五つと魚二ひき」を五千人の人たちに配って食べさせたら、皆が満腹した上、食べきれずに残飯まで出たそうです。
果たしてこんなことがあり得るでしょうか。
まあ、あり得ないでしょうね。というか、いくら神様であっても、科学の法則に反して奇跡を起こすことなどできないはずです。なぜなら、その科学の法則を作ったのも神様なのですから。
ならば、この上の文章をどう読み解けばいいのか。
普通の人なら、この文章を解読するために、またしても「解説書」を手に取るかも知れません。
しかし、何度も言いますが、そんなことをしても全くの無駄です。むしろ、その「解説書」を読めば読むほど頭が混乱してくるだけでしょう。
では、どうすればいいのか。
「聖書」を読んでいて何かしら疑問が生じたら、同じ「聖書」を使って解き明かせばいいのです。
実際、聖書にはこう書かれてあります。
「あなたがたは主の書をつまびらかにたずねて、これを読め。これらのものは一つも欠けることなく、また一つもその連れ合いを欠くものはない。これは主の口がこれを命じ、その霊が彼らを集められたからである。」(イザヤ書34章16節)
神の言葉である「聖書」には、必ず「つれあい」があると書かれてあります。
つまり、聖書を読んでいて何か疑問が生じたら、その答えとなる言葉が聖書のどこかに必ず書かれてあるということですね。だから、聖書を詳しく読みなさいと言っているわけです。
実際、「キリストの復活」についても、私はあくまで聖書だけを使って解き明かしました。「人間には霊と肉がある」という聖書の言葉から解き明かしました。
また、つい先日も、聖書にはアダムとエバを「へび」が騙すシーンがあり、この「へび」は「悪魔」のことだと書きました(その記事がこちら)が、なぜこの「へび」が「悪魔」と言えるのかというと、聖書にこう書かれてあるからです。
「この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。」(ヨハネによる黙示録12章9節)
このように聖書には必ず「つれあい」となる言葉が出てきます。一つの言葉に対して、必ずその答えとなる言葉がどこかに書かれてあるのです。
で、その「つれあい」となる言葉をきちんと見つけ出すことができれば、聖書を矛盾なく、理路整然と、そして科学の法則にも反することなく解き明かすことができるということなのです。
それでは、実際にこの法則を使って、イエスが五千人にパンを分け与えたという文章の謎を解き明かしてみましょう。
実は聖書の別の箇所にはこのようなことが書かれてあります。
「イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」(ヨハネによる福音書6章35節)
ここでイエスは自分のことを「パン」と喩えています。しかし、実際にイエスのことを食べられるわけがありませんから、恐らくこれはイエスの語る「神の言葉」のことを言っているのでしょう。
つまりここに出てくる「パン」とは「神の言葉」だということです。実際、聖書にはこうあります。
「イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。 」(マタイによる福音書4章4節)
人は「パン」だけで生きるのではなく、「神の言葉」によって生きる、とあります。これをさらに正確に言うなら、人は「パン」によって「肉体」を生かし、「神の言葉」によって「霊体」を生かすということでしょう。
したがって、イエスが五千人に「パン」を与えたという奇跡も、実際に「パン」を与えたのではなく、「神の言葉」を与えたと解釈できるわけです。
なんとも単純な話ですよね。拍子抜けするほど単純な話です。
しかし、この世のクリスチャンの多くがこんな簡単なことも分からず、本当に五千人にパンを配ったと信じたり、この箇所を哲学的かつ難解に解釈したりしています。
しかし、聖書にはさらにこんなことも書かれてあります。
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弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。
そこでイエスは言われた、「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」。
弟子たちは、これは自分たちがパンを持ってこなかったためであろうと言って、互に論じ合った。
イエスはそれと知って言われた、「信仰の薄い者たちよ、なぜパンがないからだと互に論じ合っているのか。
まだわからないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。
また、七つのパンを四千人に分けたとき、幾かご拾ったか。
わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。
そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、パン種のことではなく、パリサイ人とサドカイ人との教えのことであると悟った。
(マタイによる福音書16章5〜12節)
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イエスはこのように「パリサイ人とサドカイ人との教え」のことを「パリサイ人とサドカイ人とのパン種」と喩えています。「誰かの教え」を「パン種」と喩えたわけですね。
ですから、どこからどう見ても、イエスが五千人に「パン」を分け与えたという奇跡は、「パン」を分け与えたのではなく「神の教え」を分け与えたのだと考えられるわけです。
そして、聖書に書かれてある奇跡は、これと同じく、そのほとんどが「喩え話」であると考えるべきでしょう。
実際、イエスは別の箇所でこう語っています。
「わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう。」(ヨハネによる福音書16章25節)
このように、イエス・キリストは全てのことを「比喩」で語ったと言っています。
ということは、イエスの弟子たちも「聖書」を書く際には、イエスに倣って「比喩」を用いたに違いありません。ですから、「聖書」のほとんど全てが「比喩」で書かれてあると考えるべきなのです。
ある意味、これは「神の言葉」を分かる人にしか分からないように封印しておいたとも言えます。
つまり、日頃から神様にお祈りして、善良に生きている人でなければ、「聖書」の言葉を悟れず、「聖書」の封印を解くことができないようにしておいたということです。
したがって、聖書を読んでアンチ・キリストになるような人は、普段から悪魔に近い生活をしているということを自ら立証しているようなものだということですね。
聖書を読んだのに何も悟れず、何の感動も受けられず、キリストや聖書の悪口を言うような人は、例えその人が工作員であろうとなかろうと、その人たちはみんな悪魔のような心を持っているということです。
なので、そういう人がいくらこのブログに来て「陰謀論」を学んだとしても、ただ政治家の悪口、財閥家の悪口を言って終わりになるだけでしょう。
そういう人がこの世の中を変えていくことは絶対にできませんし、むしろ彼らが何か行動を起こせば起こすほど、逆に世の中がおかしくなってしまうかも知れません。
その人が悪魔崇拝者でなかろうと、悪魔と同じ心を持っているわけですからね。
というか、そういう人は最初からこの世を変えようという気すら持っていないのではないでしょうか。
しかし、逆に言うと、聖書を読んで深い悟りを得られる人は、普段からそれだけ神様に近い心を持っているという証拠だと言えます。
いずれにせよ、「聖書」の中に何かしら非現実的な話が出てきたら、「聖書」を使って解釈しなければいけないということを肝に銘じておいてください。安易に「解説書」など手に取ってはいけません。
そうしてこそ、我々は悪魔から騙されることなく「聖書」を正しく解釈し、「聖書」から多くの悟りを得て、人生を平和に幸せに生きられるようになるのです。
アモリフェラ
Posted at 22:52h, 21 4月連れ合いのお話は、なるほど!と思いました。疑問に感じたとき別の箇所も読んでみたいと思います。5000人がパンを分け合った話はとても素敵ですね。悪魔はその点気の毒です。例え5000人分のパンを持っていたとしても、もっと!もっと!と欲しがる事でしょう。有り余るほど持っていても、貧しい人からさらに奪い取る、そういう思想がたぶん悪魔教なのだろうなと思いました。UPありがとうございます。
カシスオレンジ
Posted at 00:16h, 22 4月RAPTさん、皆さん、こんばんは。
最近記事がものすごく面白すぎて、RAPTさんのブログ更新が待ちきれません。
私と同じ気持ちの読者さまも多数いらっしゃると思います。
また聖書やお祈りのお話を楽しみにお待ちしています。
モーメント
Posted at 00:43h, 22 4月心の在り方の大切さを教えて頂きまして、ありがとうございます。現在の過酷な競争社会も、悪魔的な思想が生み出したものであり、常に心が餓えた状態に導く欲望社会の仕組みも、悪魔思想の洗脳の凄さを物語っていますよね。
欲望社会の奴隷から解放される知恵を、このブログから学べる幸せに感謝申し上げます。
ひろ
Posted at 03:21h, 22 4月レオナルドダ・ヴィンチは、「最後の晩餐」など、数々の名画を遺していますが、レオナルドダ・ヴィンチ自身が、キリストの直系の子孫だった可能性はないでしょうか?レオナルドダ・ヴィンチはシオン修道院のグランドマスターであったといわれ、飛行機や自動車の出現を予見、設計図を描いていたり、フィレンツェを上空から描いたと思われる絵を描いています。いわば天才と呼べる人物ですが、キリストが生きていた2000年ほど前、キリストとその弟子は、2000年前当時、当時の人々の考えもつかない及ばないような(現代社会から見ても)高度な知識や技術を有していて、それらの知識や技術を、当時の人々に平等に教えを説いたり、技術供与しようとした、そのことに対して警戒危険視した当時の古代ローマ軍が、キリストが保有していた高度な知識技術を得て支配強化しようと考え、キリストを捕らえ尋問拷問した、キリストとその弟子たちは古代ローマ軍が自分たち(キリストとその弟子)が有していた高度な知識技術が悪用されることを看過していて、決して口を割ることはなかった、同時に、秘かにキリストの子孫の護衛ならびにキリストと弟子たちが有していた高度な知識や技術の伝授を目的とした組織(シオン修道院あるいは前身の組織)を設立、レオナルドダ・ヴィンチは、それらの知識や技術を暗号的ではありますが、中世ヨーロッパ時代の思想を尊重しつつ、絵画や作品に遺した結果が、今日のダ・ヴィンチの作品の数々ではないでしょうか。(未発見の作品、あるいはいまだ解読されていないダ・ヴィンチの作品が存在していると思います。) キリストは、UFOを製造する技術や知識、人工受精やハイテク機器を製造可能な技術を有していて、秘かに使用したかもしれないと思います。実際、宗教画には、UFOと思われる飛行物体が描かれています。
rapt
Posted at 03:40h, 22 4月>ひろさん。
それは100%あり得ませんね。
ダ・ビンチがキリストの子孫という考え方は「ダ・ビンチ・コード」か何かから来ている考え方でしょうが、イエスはそもそも結婚していません。
イエスが結婚したというのは悪魔崇拝者がキリストの神性を冒涜するために広めた考え方であって、イエスは誰とも結婚することなく死にました。
もっとも、結婚したから神性が冒涜されるということもないと思うのですが、悪魔どもはなぜかそう思って、そんな考え方をこの世に広めたわけです。
聖書を読めば分かりますが、イエスは宣教活動ばかりしていたので、結婚などしている暇はありませんでした。
肝心なのは、イエスが悪魔崇拝者とは対極にある存在であり、悪魔を滅ぼすためにこの世に来たということです。
私はそのような角度で聖書を読んだので、このように悪魔や悪魔崇拝者のこと、彼らの支配のカラクリをはっきりと理解できるようになったのです。
なので、イエスは悪魔崇拝者たちのような高度な技術は何も持ってはいませんでした。
イエスをまるで悪魔の仲間のように考えると、私もこのようなブログを書くことはできなかったでしょう。
http://rapt-neo.com/?p=19013
あと、宗教画を描いたのは本物のクリスチャンではなく、ほとんどがクリスチャンの振りをした悪魔崇拝者であると理解してください。
ダ・ビンチなどルネサンス期に活躍した画家のほとんどはクリスチャンではなく、悪魔崇拝者です。
http://rapt-neo.com/?p=9309
とにかく、イエスについて正しく知るためには、ネットや書籍等の知識に頼るのではなく、聖書を読んでください。
聖書以外の話はもうほとんど悪魔の考えが混ざっていると考えてください。
悪魔はとにかくこのイエス・キリストの存在が煙たくて煙たくて仕方がないので、正しいイエス像がこの世に伝わらないように必死になっているのです。
yum
Posted at 08:43h, 22 4月RAPTさんのコメント欄を含む素晴らしい分析に感謝です。
聖書はそのままに読んでみて、そこにある深く感動する言葉を見出し、それが心に残り、魂の糧になりー。
それだけで素晴らしい書物だと思っています。
私自身は今まで、よくわからない奇跡については、あまり追求せずに、そのままを信じるということでもなく、流し読みという感じでいました。
それでも、読むとどこか解放されるものがあり、神とは解放する存在であると思ったりしたものでした。
今もまたそう思います。
読んで、気がついて、むしろ楽になる面が出て来ます。
説教がましいような内容についても、この不穏な時代。
様々な事が行われていたり、行われていることが分かって来た今、もっと受け入れ易くなっています。
あれをするな。これをしろ。という事が、理解出来て来たといいますか。
これらは自らを救うもので、束縛ではなく、やはり解放するものだと思います。
このところまた少し読んでみて、そう感じさせられました。
悪魔の存在、その手法、そういう事実を知れば、本当にこの聖書という書物の大切さが分かって来ますね。
だから、阻止したい。向こうにとってはそうなりますよね。
ところで、
昔○○学会の青年部か何かにいた人と仕事で一緒になり、ある日私がそこの仕事を辞めてから外で会った事がありました。
向こうに誘われたのですが。
その後の仕事の様子などを雑談で話した後、そこでひとまず目的は終わったのですが、「映画とかやっている場所がそばにあるから行かない?」という事で、帰ろうと思ったものの付き合い上行ってみたら・・・。
○○学会の集会をやっている会館でした。やはり、そういう事だったのか・・・でした。
それが目的だったのかと何だかガックリ・・・。
そういうやり方だから、人としてむしろ信用出来なくなってしまうのに、こういう風になって行ってしまうんですよね。。。
その後、初めて中の様子を見ましたが、若者のバンドが演奏し、合間に教えのような話をし、そばのスクリーンでは新しく入信した人の紹介が次々とされていました。
信者さんたちは、そこでリラックスするように座ったり、ごろんと横になっていたり。
それらを少し見学した後、帰るからと席を立って、そこを後にしようとした時。
仲間である入信の係?の女性の所に連れて行かれ、お話を・・・となりました。
でも、私はその気がなかったので、「家は父が子供の頃教会に行ってたこともありまして・・・」などとその気がないことを言い訳めいてしたのですが、その時ー。
「キリスト教なんていうのはー!!」とその女性は突然顔を歪めて、いかにも忌み嫌った様子で、どこかを見つめながら言い出したのでした・・・。
私は意外な事だったので、すごくビックリしました。
ちょっと言っただけなのに・・・と。あれが折伏というものだったんでしょうか。
だけど、そんな風になったら尚更早く帰りたくなりましたから、さっさと帰る事にしてしまいましたが。
他のものは認めないのか・・・。こっちも怒りが湧いて来てしまいました。
別に家が特にキリスト教だったわけでも何でもなかったんですが、父が子供の頃祖父母と教会に行っていた事があったのは事実だったようですから、私は嘘はついてないんですが。
なので、それをいきなり責められなきゃならないのは不快でした。
その後、その仕事で一緒だった人は車で駅まで私を送ってくれましたが、結局パンフレットを強引に押し付けられて帰って来ました。
帰り道。パンフレットを開いてみると、たくさんの芸能人の信者さんが載っていました。
そんな訳で、すごくキリスト教を嫌っている所だという印象が結局私には残りました。
かなり以前のことですが、それを知った事は今少し役立ったでしょうか。
天皇家との繋がりもあるようですが、キリスト教と天皇家とは結局相容れない間柄なのでは?と
この体験からも思ってしまうものです。
長々とすみませんでした。
ひろ
Posted at 15:11h, 22 4月ラプトさん、ご返答ありがとうございます!なるほどです。まずは聖書を読むことですね。つい最近身近に起きたことですが、職場のスタッフが僕が勤めていた会社を退職後、あいさつに職場を訪れた際に、これを読んでください、と『「新約聖書 NEW TESTAMENT」 NKJ/新共同訳 日本国際ギデオン協会より贈呈』 と書かれた 赤表紙の新約聖書を手渡されました。宗教とは無縁そうな感じの今時の若者という感じのスタッフさんでしたので、どうして俺に新約聖書なる書物(聖書ですかね。(^_^;) )を渡したのか、聞いたところ、そのスタッフさんの家の近くに教会が建っていて、そのスタッフさんが、どんな所なのか興味半分で教会を訪れてみた時に、帰り際に手渡された、とのことでした。手渡されましたので、いただき、僕は、ここ最近忙しくゆっくり読む時間がなく、その新約聖書なる書物をまだほとんど読んでいません。The Gospel According to MATTHEW マタイによる福音書 が、1ページ目で、イエス・キリストの系図(ルカ 3 23-38)と書かれています。
ほとんど読んでいませんが、ゆっくりのんびりと読んでみようと思います。ダ・ヴィンチは悪魔崇拝者、ですね。なるほどです。ピオ神父をはじめ、世界各地で報告される聖痕者、イタリアトリノにあるキリストの亡骸を包んだとされるトリノの聖骸布、など、も悪魔崇拝者が流しているデマやイベント、パフォーマンスでしょうか。
Aratani
Posted at 19:30h, 22 4月RAPTさん こんにちは。
僕は聖書を読むようになってまだ6年位ですが 今まで”これは本当かな?”とか
”この箇所はどういう意味かな?”とか 思う箇所が幾つかあったのですが、
今日 ここで謎が解けました…。頭の中のモヤモヤが取れてスッキリしました。
本当にありがとうございました。
僕が今まで読んできた物の中には 悪魔崇拝者が作った物があったと思います。
それに振り回されて聖書を正しく理解できてなかったと思います。
”神の言葉である「聖書」には、必ず「つれあい」があると書かれてある”
→見落としていました…RAPTさんは 鋭い分析力をお持ちですね。
牧師さんよりも聖書を良く理解していらっしゃいますね…
”イエス・キリストは全てのことを「比喩」で語ったと言っています”
→これも 聖書を正しく読む為には 忘れてはいけないことですね。
もっともっとRAPTさんには聖書の解説をしてほしいです。
そして 一人でも多くの人がここを訪れて もっともっと聖書を読む人が
増えることを願っています。
かに
Posted at 20:01h, 22 4月>ひろさん
悪魔勢力のキリスト教への工作の最たるものはマリア崇拝だと思われます。聖書を読まれればなぜマリアが石像まで作られて崇拝されてるのか理解に苦しむはずです。カトリック教会は祈りの方向を決めるためだとか苦しい言い訳をしてるようですが聖書の中で神様はあれほど偶像崇拝を嫌い、禁じていたのにマリア像を作って教会に置いてあるのです。
初期キリスト教に敵対した勢力に地中海世界を偶像で埋め尽くしていた石工達がいます。石工ですよ石工、あとは言わなくてもわかりますよね!
涙を流すマリア像に騙されないようにしましょう(笑)。
rapt
Posted at 20:18h, 22 4月「ピオ神父をはじめ、世界各地で報告される聖痕者、イタリアトリノにあるキリストの亡骸を包んだとされるトリノの聖骸布」
などに価値を置くこと自体、きちんと聖書を読んでいる人からすれば「?」の世界ですね。
そんなものが自分の人生を高めてくれるわけではありませんから。
聖書で何よりも大事にされているのは「モノ」ではなく「心」です。
聖書を読めばそれがすぐに分かりますし、それが分からないことには、こういう何の価値もないものに価値を置いて、悪魔に騙されたまま人生を生きるハメになってしまうわけです。
そして、これまでそういう人があまりに多かった……というのが現実なのでしょう。
ひろ
Posted at 07:00h, 23 4月僕は、UFOや心霊現象、超常現象など興味があり、僕自身、不可思議体験に度々遭遇していますが(地蔵さんに話しかけられた、龍のような奇妙な飛行物体を目撃、グレイに遭遇、UFOを目撃、メンインブラックに遭遇、幽体離脱体験などなど)聖痕、トリノの聖骸布、ロンギヌスの槍、聖杯、失われた聖柩(アーク)、バイロケーションなど、僕はこれらの事象を客観視していました。超常現象の情報の出所の大半は、当局や有力家系(アスター家、コリンズ家、ロックフェラー家やロスチャイルド家、天皇家などなど)、それらの家系に従う国家政府機関や下部組織などが絡んでいる、と常々思っていましたが、ラプトさんの記事を読み、やはりそうかと確信しました。キリストの生誕の日とされている12月24日はクリスマスイブ、翌25日はクリスマス、クリスマスといえば、サンタさん、ですが、SANTAは文字を並び替えれば、SATAN(サタン)となり、そもそもキリスト生誕の日とサンタは何のゆかり関連があるのか、と突っ込みどころ満載ですが、失われたアークは、実は、剣山あるいは伊勢神宮にある、という話や、祭りなどで使われる神輿(みこし)は、失われたアークを模したものである、という話とラプトさんの数々の記事を照らし合わせてみると、なるほど、そういうからくりなのか、と明解ですね。(笑) 伊勢神宮は天照大御神を祀った神社いわいる天皇家のためにある神社、ですし、剣山には、度々ロスチャイルド家が訪問している、という話などを照らし合わせてみると、偶像崇拝の出所は今日(こんにち)の有力家系なんだな、と気付かされます。話は変わりますが、天武天皇と天智天皇の兄弟天皇を特集したムックの出版元は宝島社(別冊 宝島)でした。失礼致しました。
rapt
Posted at 07:10h, 23 4月>ひろさん。
聖書にはキリストの誕生日が12月25日とはどこにも書かれていません。
12月25日は悪魔教であるミトラ教の神・ミトラスの誕生日です。
それなのに、バチカンに潜伏した悪魔崇拝者が勝手にキリストの生誕日として決めてしまいました。
詳しくは以下のリンクをご覧下さい。
http://rapt-neo.com/?p=16597
あと、「地蔵さんに話しかけられた、龍のような奇妙な飛行物体を目撃、グレイに遭遇、UFOを目撃、メンインブラックに遭遇、幽体離脱体験などなど」はとても信じられる話ではありませんね。
UFOの目撃と、幽体離脱だけはあり得ると思いますが……。
それらに遭遇したときの状況について、詳しく教えてもらえますか。
ひろ
Posted at 09:25h, 23 4月ラプトさん、おはようございます! 地蔵さんに話しかけられた体験談は、小学校1年の夏の出来事です。熊本県の天草に家族で海水浴に行った時の話です。海水浴のあと、沿道に地蔵さんがたくさん建ち並ぶ、とある山道を家族と歩いていた時、不意に後方から、「○×ひ△くん」(ネット上ですので、個人名は出せませんが、一部出しました。(笑))と僕の名前を呼ぶ男性の声が聞こえました。その山道を歩いていた時、僕は、最後尾を歩いていて、両親妹弟(弟は当時1歳半で親に抱き抱えられていたと記憶しています。)が僕の前を歩いていました。両親家族は僕を君づけでは呼ばない、明らかに両親の声ではない、聞いたことない30代40代の男性の声で、やわらかい感じのトーン(声の例えが難しいですが、大人なんだけど子供のようなやさしい響きのある声で、アニメの一休さんのような声、アニメの一休さんのような甲高さはないけれど、イメージ的にはそんな感じの声です。)の声でした。振り返りましたが、誰もいない、両親にも、僕を呼んだか確認しましたが、呼んでない、両親妹弟の後ろをピタリと歩いていましたから、前から呼びかけられれば気付くでしょうし、何より両親の声ではありませんでした。状況的には、沿道を建ち並ぶ地蔵さんから名前を呼ばれたとしか思えません。あるいは、地蔵さんに吸い寄せられ集まってきたとある霊の仕業だったのかもしれません。
龍のような飛行物体を見た時の話です。2005年12月26日(クリスマスの翌日の話ですので、日付を覚えています。)、場所は、熊本県の玉名市です。当時、僕は、長洲町の職場に、原付バイクで通勤していました。玉名市内を原付バイクで走行中、何気なく上空を見ましたら、白い、目測20メートルはありそうな、一反木綿のような細長い物体が、くねくね動いているのが見えました。角のようなものが見え、かなり高速で飛行していました。例えて言うなら長崎くんちで出される龍のような物体です。「あれは、何だ?」と思いながら、路肩に原付バイクを停めて、その飛行物体を眺めていましたら、西の方角を飛行していて、しばらくして、パッと消えました。個人的には、龍だったのではないかと解釈しています。(その飛行物体を目撃して、2週間ほど経って、ナンバーズを買いましたら、半額ですが、当たりました。(^_^;) ) 幽体離脱体験は、話が長くなりますから、またの機会に書き込みさせてください。(幽体離脱体験は、2006年1月26日に起きた出来事です。) グレイ遭遇とメンインブラックの遭遇話も時系列な繋がりがあって、話が長くなりますので、またの機会に書き込みさせてください。(グレイ遭遇は、2009年3月中旬 3月14日15日頃です、遭遇場所は、自室、就寝中、メンインブラックの遭遇は2009年4月初旬 4月9日と記憶しています。場所は、地元のショッピングセンターのベンチに、昼休憩中座っていて、遭遇しました。) ちなみに、僕は、熊本在住です。ハンドルネームは、名前の一部です。(^_^;)