12 8月 徳川家康も紛れもない悪魔崇拝者でした。古代から現代まで当然の如く行われてきた「人身御供」について。
昨日は、「秦氏=ロスチャイルド」がほぼ日常的に虐殺や人身供養を行っていた「秦の始皇帝」の末裔であるということ、そしてこの「秦氏=ロスチャイルド」が日本に渡ってきてからも、幼子や女性を生贄として捧げる悪質な祭事を当たり前のように行ってきたというお話をしました。
○「秦氏=ロスチャイルド」は日常的に虐殺と人身供養を行っていた「秦の始皇帝」の末裔です。
さらに言うなら、「秦氏=ロスチャイルド」はもともとメソポタミア地方で、ゾロアスター教の祭杷を司っていた祭祀一族です。詳しくは以下のリンクをご覧ください。
○「神社」と「山」と「ピラミッド」と「空海」と「秦氏」と「ゾロアスター教」との切っても切れない関係。
で、この祭杷氏族がやがて中国へと渡り、朝鮮半島へと渡り、さらには日本にも渡ってきて幾つもの神社を建て、その神社で神道を信じる振りをしつつ、実はゾロアスター教をコソコソと信奉し、様々な悪しき祭事を司ってきたというわけですね。
で、このゾロアスター教は、実は「親近相姦」を美徳とし(詳しくはこちら)、幼子や女性を生贄として捧げるような悪魔教だったわけです。
しかし、この日本に広く普及している神道が、まさかこんな悪魔教であるとは誰も夢にも思っていません。なので、今でも日本人の多くが神社のお祭りに毎年のように参加して楽しんでいるわけです。(もちろん、中には仕方なく参加している人もいるとは思いますが。)
で、「日本三大祭」の一つとされている「祇園祭」ですら、実は「バアル=牛頭神」に幼子を生贄に捧げる悪魔崇拝儀式だったということが分かったわけですね。おぞましい話ですが。
○京都の「祇園祭」はもともと牛頭神バアルに幼子を生贄として捧げる悪魔崇拝儀式でした。
で、今日はこの話の補足として、実はかの有名な戦国武将「徳川家康」も同じように人身御供を行っていたというお話をしたいと思います。
「徳川家康」というと、「教皇派」のエリザベス女王から大量の武器を支援してもらい、「天皇派」のNWOを阻止していた人物であったことが分かっています。詳しくは以下のリンクをご覧ください。
○地下鉄丸の内線とGHQと徳川家康とエリザベス女王とイエズス会の奇妙なつながり。東京の地下には教皇派の秘密施設も眠っている。
○徳川家康が行った鎖国とキリスト教禁教令の本当の意味。果たして徳川家康は悪魔崇拝者だったのか。
で、私はこの「徳川家康」も「出雲族」だったのだろうと見ているわけですが(詳しくはこちら)、もし彼が本当に「出雲族」であったなら、彼もまた「バアル=牛頭神」を拝み、人身御供を行っていた可能性が高いということになります。
というのも、「バアル=牛頭神」とは「出雲族」にとっての神様「スサノオ」のことだからです。詳しくは以下のリンクをご覧ください。
○「天照大神」と「スサノオ」の正体。またはルシファーの正体。彼らこそが悪魔の三位一体です。
そこで、私は「徳川家康」についてあれこれと調べてみたのですが、案の定、彼もやはり江戸城を建てる際に、生贄として何人もの人たちを土中に生き埋めにしていたことが分かりました!!
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■江戸城伏見櫓(最上の画像)の人柱
(註 :「人柱」とは生贄にされた人間のことを意味します。詳しくは後ほど)
かつての江戸城伏見櫓(現在の皇居伏見櫓)は、徳川家康が伏見城の櫓を解体して移築したものと伝えられているが、1923年(大正12年)に発生した大正関東地震(関東大震災)で倒壊し、その改修工事の最中、頭の上に古銭が一枚ずつ載せられた16体の人骨が発見され、皇居から人柱かと報道されたこともあり大騒ぎになった。
伝説を信じれば、1603年~1614年の慶長期築城の時、伏見城の櫓を移築した後で人柱を埋めたことになる。
江戸城研究家たちの間では、人柱とするには余りにも粗末に扱われていることや、伏見櫓を解体修理した結果伏見からの移築物ではないことが明らかであることが分かっているため、人柱説には否定的である。
徳川家康の慶長期築城以前に、城内にあった寺院の墓地の人骨であろうとされており、『落穂集』などの史料には、慶長期築城以前には、複数の寺院が城内にあり、慶長期築城の時に全て移転させられたことが明確だからである(鈴木理生・黒田涼・井上宗和らの説)。
一説には、皇居と深い関わりにあった黒板勝美は宮内省から調査依頼を受け、実地見聞を1時間半程度行っただけで人柱否定説を打ち出してそのまま公的調査は終了したといい、その後、中央史壇などで供犠の話題で特集が組まれた。
喜田貞吉は黒板の発言の矛盾を指摘し、批判するとともに、人柱の文化的な意味について考察を広げようとしていた。1934年(昭和9年)には坂下門近くでも5人の人骨と古銭が発見されている。なお、見つかった遺骨は震災の混乱の中、芝・増上寺で手厚く供養されたという。
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先ず、「人柱(ひとばしら)」が何なのかを簡単にご説明します。
「人柱」とは、人身御供の一種で、「橋」「堤防」「城」などを建築する際、災害や敵襲によって破壊されないことを神に願うために、人間を生かしたまま土中に埋めたり水中に沈めたりする風習のことを言います。
で、このような風習は、昨日の記事にも出てきた「秦の始皇帝」もやっていたことですし、現代においてはダライ・ラマもやっていたことが分かっています。ダライ・ラマについては以下のリンクをご覧下さい。
○「チベット仏教」なる悪魔教を国教とするブータンが世界一幸福な国であるという大嘘。
で、この上の転載記事に書かれてある通り、「徳川家康」もまた同じように江戸城を建設する際に「人柱」を埋めていたことが分かったわけです。
しかしながら、この事実を必死で否定しようとする学者が何人も現れたため、まさか「徳川家康」がそんなバカなことをするわけがないという話になり、結局、今では江戸城の敷地から「人柱」が発見されたという話すら完全に揉み消しにされてしまっています。
少なくとも、私はこんな事実があったことを今の今まで全く知りませんでした。
恐らく私だけではなく、多くの日本人がこの事実を知らずにいることでしょう。だからこそ、今でも多くの人たちが「徳川家康」ファンになり、「日光東照宮」にお参りに行っているわけです。まあ、見事なまでの情報コントロールですね。
しかし、はっきりと言いますが、「徳川家康」は毎日のように戦争を行い、毎日のように人を殺していたような人物なのです。
そんな人物からしてみれば、十六人の人間を生き埋めにすることぐらい訳もないことだったはずです。良心の呵責を感じることもなかったでしょう。
まして、「人柱」を埋めることで自分が栄え、江戸が栄えると信じていたなら、喜んでそのような行為に突っ走ったに違いありません。彼らの頭の構造は我々のそれとは全く異なっているのです。
実際、以下のような記事も見付けました。
----------------(以下、こちらから転載)
各地で神事、祭りで人々が熱狂しています。
が、その元を辿ると、相当に荒々しい原型にたどり着きます。
今回は戦国時代ではありませんが、明良洪範という本の話を読んでいましたら、尾張のお祭りの話が出てきまして「え・・・。」とドン引きした話があったのでご紹介を。
(註 :尾張とは、徳川御三家のうちの一つ「尾張徳川家」のこと。)
■尾張大納言光友(巻15)
尾張大納言光友卿は光義と名乗っていた時、法を厳重にして万事を先代義直の掟を守らせていた。
(註 :「光義」とは尾張藩の二代目藩主の「徳川光友」のこと。詳しくはこちら)
正月25日は熱田で神事がある。
この神事は、名古屋の者と熱田の者が打ち合うもので、昔からの行事である。
昔は、鑓や薙刀で戦っていたが、やめさせて、今では刀で打ち合い、双方に少々怪我人が出ると奉行が棒を入れて双方を引き分けている。
また、正月13日は多田の神事があるが、この神事は、昔は道を歩いている人を捕らえて生贄にしていた。
今では雉肉(きじにく)を人肉に代えて行っている。
これらは皆、義直公の仁政の賜物である。(以下略)
(註 :「義直」とは上に出てきた「徳川光友」の父親のこと。で、この「義直」は「徳川家康」の息子(九男)になります。)
さらっと書いてくれていますが、ものすごい怖いことを書いてます。
儺追系の神事というのは、地域にもたらされる災いである『厄』を引き受ける役に押し付けて地域から出てってもらうことで地域の厄が無くなる、という発想のもとで行われているようです。
稲沢市国府宮はだか祭りなどでは、神男に裸男達が群がり、神男に厄をなすりつけるために押し合いへしあいするという結構危険な祭りで知られています。
神男は公募制で、男を魅せるステータスにもなっていますが、裸男に引きずりおとされて揉みくちゃにされて亡くなってしまうこともあります。
こうした儺追系って元々は、運悪く儺追の時期に地域を通りがかった旅人が住民に捕獲されて、厄落としとしてぼこぼこにされて、最後、ありがとよ、という意味も少しは込められたでかい餅を背負わされて地域から放り出される、という、旅人にしてみれば、とんでもない災難な神事であったようです。
多田の神事とは、どこの神事を指しているのかよくわかりませんが、ここの神事でも道を歩いている人を捕まえる、と、ありますので、まさに該当してくると思います。
その昔、旅人と言うものは、ある意味地域社会に属していない危険因子として認識されていた部分もあるので、こうした目に遭うこともあったのでしょう。
もっとも、多田の神事では本当の意味で「生贄」にされてしまっていたようで、相当に物騒な神事だったことがわかります。
そして、これも徳川義直公によって雉(きじ)で代替するようになったとあります。
徳川義直って言えば、江戸時代の人。
そんな時代まで、結構今からみると恐ろしげな風習があちこちにあったのですね。
今の時代に産まれて良かった。
----------------(転載ここまで)
要するに、「徳川義直」の時代まで、人を生贄とするお祭りが当たり前のように行われていたということです。
ということは、彼の父である「徳川家康」の時代には当然、そのような祭りがあちこちで行われていたに違いありませんし、「徳川家康」が江戸城を建てる際に「人柱」を埋めていたとしても何ら不思議ではありませんよね。
まして「徳川家康」がそうであるなら、彼より前の時代にはさらに日常的に「人身御供」が行われていたと考えて間違いないでしょう。
実際、以下のような記事も見付けました。
----------------(以下、こちらから転載)
一方の日本では、舎人親王らが養老4年(720年)ころに完成させた、「日本書紀」に登場する大阪府の「茨田堤」の建設に関する記事の中に人柱に関する記載があるそうで、このほか、同時代の長野県の諏訪大社や奈良県の倭文神社などでも人身御供にまつわる話が残っているといいます。
日本では、人身御供のために犠牲となった人間のことをよく「人柱」といい、「白羽の矢が立つ」ということばは、この人柱を差し出す家に白い羽がついた矢が刺さったことに由来しています。
無論この矢は人為的に立てられたものではあるわけであり、匿名の誰かによる指名行為であった訳なのですが、この匿名者とはいうまでもなく時の権力者たちだったことでしょう。
しかし何も知らないこの当時の人々はこれが「神意」によるものだと信じ、この矢が家屋に刺さった家では、所定の年齢にある家族を人身御供に差し出さなければならないという風習になっていきました。
なぜ白い羽なのかはよくわかりませんが、「白」は古来から神聖な色であり、白羽の矢は何等かの霊的な存在が目印として矢を送ったのだ、と考えられたわけです。
近江国伊香郡(現滋賀県長浜付近)には、水神に対して美しい娘の生贄を奉るという風習がかつてあり、当地では生贄となる娘は必ず片目が選ばれたそうです。柳田國男の「日本の伝説」によれば、神が二つ目を待った者より一つ目を好んだからだそうで、一つ目の方が神と一段親しくなれたのだそうです。
生贄としては、人ではなく、動物が捧げられることもあったようですが、例えば神の贄として魚が選ばれたときには、これをわざと片目にするということなども行われていました。
実は静岡には、人身御供や人柱の伝説が多いのだそうです。その例としては、富士吉原市の三股淵、浮島沼の人身御供や磐田市の見附天神の人身御供などがあって、これらの生贄伝説は学者たちの間でも結構有名なのだとか。(註:詳しくはこちら)
1967年に発行された富士吉原市の広報誌には、この三股淵の人身御供について触れられており、それによると、この三股淵の付近では毎年6月28日に祭りを行いますが、かつては12年に一度、通常の祭りとは別に人身御供を伴うお祭りをやっていたそうで。これは大蛇の怒りを鎮め大難を防ぐための祭りだったといいます。
この三股淵の例もそうですが、人身御供となる者の条件、人身御供の儀式についてその詳細が書かれていることはそれほど多くないようです。が、各地に残っている伝承などを総合すると、生贄となる者の条件は、だいたい15~16の少女で処女、ときには「美女」でなければならないという条件が付加されている場合もあったようです。
人身御供の方法としては、生贄に選ばれた少女が生きたまま淵に投げ込まれることもあったようですが、これではあまりにも無残なので、生贄自らが入水(じゅすい)の形を取ることが多かったといいます。
人身御供を捧げる相手は、大蛇や竜神などの特定の神である場合も多いようですが、生贄を捧げる相手はただ単に「神」であるとされる場合も多く、無論、日本における神々の多くは自然に存在する万物の「例え」であり、これらの怒りを鎮め、災害や厄災いが人々に降りかからないようにするための儀式にほかなりません。
このため、一般の女性だけではなく、神にその意思を伝える能力のある人物ということで、巫女が人身御供となったことも多かったと伝えられています。
こうした人身御供は、公共の面前で堂々と行われるというよりも、「秘事」としてこっそりと実施されることも多かったようです。
このため、ある日を境に村のある娘がいなくなるなどということはよくあり、これが人柱のためであるとうことを薄々知っている人もいたでしょうが、たいがいはこれを神隠しであるとか、神がかりであるとか言って済ませていました。
ところが、長い間には、どうやらこうした人身御供が「神事」として密かに行われているらしいことを土地の者が知るようになり、こうした神事は、祭日に行われることも多いことから、これを免がれんがために、祭日には娘を外出させないようにする、ということも行われたようです。
しかも、自分の土地の人間を生贄にはしたくないので、旅人を捕えて人柱にするということもやっていたようで、こうした噂が広まると、他国人の往来がなくなってしまう可能性もあることから、尾張藩などでは藩命をもってこうしたしきたりをやめさせようとした、という記録なども残っているようです。
(註 :上に出てきた「徳川義直」のことを言っているのでしょう。)
ただ、ここまで書いてきたような人身御供、もしくは人柱は、あくまで「伝説」の域を出ないものも多いのは確かです。まがりなりにも人の命を軽々しく神に供するというのは、昔の人にとっても「禁忌」であり、実際に行われていたとしても、公の記録に残っているものは少ないわけです。
ただ、建築の時に人柱が埋められたという伝説が伝わる城郭はかなりあるようで、一方では「人柱のような迷信を禁じ、別の手段で代行して建築を成功させた」という名君の伝説が残っている場合などもあります。
これらの伝説の最近の実証研究の結果では、そうした専門家の一人は「城郭建築時の人柱伝説が立証されたケースは全くない。人柱に変えてなんらかの物を埋めたものが発見されることは存在する」と述べています。
ところが、城郭以外では、物証のあるものがいくつか発見されており、以下のような事例があります。ここに示した広島の吉田郡山城のように、人柱の代わりに石を埋めたという事例もありますが、これは逆にそれまでは人柱が立てられていたことを証明するものであると言われています。
■猿供養寺村の人柱(現・新潟県上越市板倉区猿供養寺)
鎌倉時代にここを訪れた遊行僧が、地すべり被害の絶えなかった土地の人々のため、自ら人柱となって災禍を止めたそうで、長らく伝説とされていたものの、1937年(昭和12年)にこの村の「正浄寺」というお寺の裏から大甕に入った推定年齢40歳前後の男性人骨が発見。
脚が太く腕は細いことから肉体労働者ではなかったと考えられ、座禅の姿勢で発見されたことから、史実であることが確認された。
■吉田郡山城の人柱代用の百万一心碑(広島県広島市、山口県山口市)
毛利元就が築城した時、石垣が度々崩れる為、巡礼の娘を人柱にする話が持ち上がった。しかし、元就が人命を尊重して人柱を止めさせ、「百万一心」の文字を石に書いて埋め、築城を成功させた。この石碑は幕末に発見され、明治時代に拓本が写しとられ、山口市内の豊栄神社に奉納されている。
(註 :この記事でも江戸城の「人柱」についても触れられていますが、重複するため割愛します。)
■常紋トンネルの人柱(北海道北見市と遠軽町を結ぶ常紋峠直下)
難工事の末、1914年(大正3年)に開通した常紋トンネルは、1968年(昭和43年)の十勝沖地震で壁面が損傷したが、1970年(昭和45年)に改修工事が行われた際、立ったままの姿勢の人骨が壁から発見され、出入口付近からも大量の人骨が発見された。
それまでもタコ部屋労働者(略称:タコ)が生き埋めにされたことについて、当時のタコやその他関係者たちの証言もあったが噂にすぎないとされていたが、この遺骨群の発見によって、かねてより流布されてきた噂のうち人柱の件は事実であったことが証明された。
上記のうち、常紋トンネルの例はもっとも信憑性の高いものと言えます。この常紋トンネルの建設というのは、この当時かなりの難工事だったそうで、標高約300m、全長507mのトンネルを掘るのに3年を要したといいます。
この当時はまだ、日本政府による開拓・道路整備等が十分でなかったためであり、このため工事にあたっては凄惨過酷な「タコ部屋労働」が行われ、多くの工夫たちの犠牲をもって建設されたことでも有名です。
施工当時は、重労働と栄養不足による脚気から労働者は次々と倒れ、倒れた労働者は治療されることもなく現場近くに生き埋めにされたといいます。
このため、この当時から「常紋トンネルには人柱が埋まっており、彼らの亡霊がトンネルや信号場に出る」とい噂が鉄道員たちの間で絶えなかったといわれており、地震のおかげでこれが事実であることが確認されました。
このため、1980年(昭和55年)には、当時の留辺蘂町(現在は広域合併により北見市に編入)によって近くの金華駅西方の高台の小学校跡地に「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」が建てられたそうです。
大正3年、1914年といえば、およそ100年前のことになり、かなり古い話とはいえ、日本が西洋文明を取り入れ、近代化の道を歩むようになって以降の話であり、結構ショッキングな出来事ではあります……
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「常紋トンネル」の工事の際に「人柱」が埋められたのも、結局のところは悪魔崇拝の一環として行われたわけでしょう。
しかし、この世の一般庶民はまさかこの世で悪魔崇拝なんてものが行われているとは思わないので、「重労働と栄養不足による脚気から労働者は次々と倒れ、倒れた労働者は治療されることもなく現場近くに生き埋めにされた」などという話になっているのだろうと思います。
しかし、悪魔崇拝者からしてみれば、怪我人や病人を生贄として捧げてしまえば、わざわざ彼らの面倒を見てあげる必要もなくなるし、悪魔を喜ばせることもできるしで、まさに一石二鳥。
しかも、古代から現代に至るまで、巨大な建築物のほとんどが「秦氏 = ロスチャイルド」なる悪魔崇拝者の手にかかっているわけですから、日本で何らかの大規模な工事が行われる際、人身御供が行われてきた(いる)可能性はかなり高いと考えていいでしょう。
○新国立競技場の工事を受注した「大成建設」は、やはりロスチャイルドと天皇と密接につながっていました。
もし大規模工事の際にその関係者がケガや病気で死んだということがあれば、そのほとんどが「人柱」にされてしまった可能性が高いと考えていいのかも知れません。
母
Posted at 22:00h, 12 8月トンネル工事中の崩落や重機が倒れて下敷きに…等のニュースは現代でも目にしますね。
今後もしその様な記事を目にしたら、施工会社がどこなのか気にしたいと思います。
静岡と言えばサッカーが強いですね〜サッカーと言えば蹴鞠、八咫烏、神武ですね!
おもて 梨
Posted at 00:04h, 13 8月raptさん、こんばんは。
記事の更新、ありがとうございます。
『白』という漢字ですが、漢字学の白川静先生は髑髏の意味があると言っています。
詳しくは⬇こちらをご覧ください。
http://www.47news.jp/feature/47school/kanji/post_187.html
クラビトーカー
Posted at 01:27h, 13 8月本日も記事アップお疲れ様です。
ウラを取っていないので公開・承認不要ですが、raptさまの情報の一助となれば、と存じます。
拙は静岡県東部の出身者なので、思い当たる事例があります。父方の実家からほど近い所に丹那トンネルがあります。
幼少時、難工事のため69人もの殉職者を出したと教わったとき、そうまでしての事業なんだろうか、と不信感を持ちましたが、本日の記事を読み「そういうことだったのか」と妙に腑に落ちました。家康お膝元の県にて、他にも怪しく悲惨な見えざる歴史が無数にあるのでしよう。
今後、記事から連想し得る事例があれば、出来る範囲で調べてみたい所存です。特に伊豆半島は修善寺物語を始めとする、源氏に纏わるエピソードが多々存在しています。また富士山という観光資源を巡り、明治期から強欲な事業家たちが利権争いを続けています。
ファン
Posted at 03:54h, 13 8月更新のお疲れ様です!
北海道十勝の黄金道路も地中にはタコだらけだって地元の方がおっしゃってました。
その頃は受刑者達が適当に扱われてたんだなって聞いていましたがRAPTさんの話を聞いていると怪しく思えてきました。
ありばば
Posted at 07:40h, 13 8月連日の更新お疲れさまです。
一時期ゼネコンで働いていました。その時の所長が「昔のダム工事にはたくさんの死人が出るのであらかじめ施工予算に計上していた」と言っていました。当時は危険が伴う大工事なので、と思いましたが疑いたくなりますね。
もうひとつ、少し前だと思いますがテレビで前世を占う番組がありまして、登場した女性は前世洪水が頻発する村で龍神様の怒りを鎮めるために生贄として橋に縛られた少女ということでした。どういうわけか当時の気持ちを喋るワケですが、生贄に選ばれて嬉しかった、というようなことをテレビで言わせるわけですね。呆れますね。
Q.Y.O
Posted at 11:47h, 14 8月いつも貴重なお話をありがとうございます。 有料記事も、聖書と共に心を洗い流してくれる様です。
巷ではお盆休みですが、「先祖の霊を迎える」なんていう風習は、RAPT理論に触れた今となっては、ちょっと別の想像をしてしまいます。
いたる所で「霊」に向けた祈りがされるこの時期、その空気を利用して、裏で強力な悪魔を呼び出したりしてるんではないか、とか。
この時期だけ急に、日本人も「霊」についてオープンになっているので、そんな事をふと考えてしまいました。
アモリフェラ
Posted at 20:01h, 14 8月なるほど、家康は嫁さんの築山殿を殺したり、息子の信康に切腹を命じたりと、人間離れしたところがありますが、悪魔崇拝者であれば納得が行きますね。人間界ではそういう人でないとリーダーになれないのかな?と、近頃は思います。