12 10月 RAPT有料記事15(2015年10月12日 )赦しと愛と実践。
今回もまた前回の対談者と対談いたしましたので、その対談を公開いたします。
今回は前回お話したことをさらに次元を上げてお話したような内容になっています。
これまでの有料記事で、サタンはとにかく人から喜びを奪い取り、失望、落胆、不安などネガティブな感情を人々の心に注入しようとしているというお話をしてきました。
場合によっては、サタンは「聖書」の言葉すらも使って、「お前はこんなこともできない」「お前はこんなひどい罪を犯した」と言って責めてくることがあります。
我々人間は、誰一人として罪のない人間はいません。どんなに正しく生きようとしても、何度も間違いを犯します。
なので、「聖書」の言葉を使って罪を指摘されると、誰ひとりとして言い逃れできる人はいません。
なので、一見するとサタンのその指摘は正しい言葉のように聞こえるのですが、神様が人を指摘するとき、そこには必ず愛があります。
その人が救われるために、その人がより進歩するために、より成功するために神様は我々の罪を指摘してくださるのです。
そして、その人が罪を悔い改めたとき、神様はその罪を必ず赦してくださいます。
ところが、サタンが我々の罪を指摘するとき、そこに愛はありません。
ただ、嘲りと見下し、嫉妬と怒りと不満があるばかりです。
なお、我々に対して様々な妨害工作がありましたので、今しばらくの間、有料記事のパスワードは銀行振込のみで販売する形を取らせていただきます。
パスワードのご購入は以下のリンクからお願いいたします。
○朝の祈り会、および有料記事のパスワードのご購入
どうぞよろしくお願いいたします。
あやこ
Posted at 09:33h, 13 10月今日も胸に染みる記事を有難うございます。
早朝と夜に祈ることが私も習慣になり、毎日とても清々しく過ごしております。
たまに祈りを欠かすことが続くと、波長が乱れ、自分を取り巻く環境が歪むのが分かります。
祈りは神様が人間にくださったギフトなのだと思いました。
RAPTさんに質問したいのですが、キリスト教の祈りで最後に唱える「アーメン」は、どう思われますか?
娘がカトリックの幼稚園に通っており、お祈りの時間があるのですが、私はある時から「アーメン」と言うのが違和感で、何となく口をつぐんでしまいます。
(そもそも教会で祈ること自体が今は違和感ですが‥‥)
今日もRAPTさんと皆様に祝福がありますように。
rapt
Posted at 17:07h, 13 10月>あやこさん。
アーメンと言うかどうかが問題ではなく、神様は心を見ているので、とにかく心からお祈りすることが大事だと思います。
悪魔はいつも形から入ろうとするし、現在のキリスト教も形式ばかりに重きが置かれていたりするので、彼らと一緒にアーメンと唱えることにも心が入らないということは多々起きるのではないでしょうか。
ネットにはアーメンという言葉も悪魔教から出たものだとか何とか書かれてあったりもしますが、「アーメン」というのはヘブライ語で「確かに」「その通り」「誠に」という意味で、悪魔とは別に関係がありません。
もっとも、悪魔崇拝者たちも祈りの最後にアーメンと言ったりもするのかもしれませんが。
いずれにせよ、日本人からすると、意味の分からない外国語を意味もわからずに使うというのは抵抗があるかもしれませんが、私は長くキリスト教を信じているので、それほど気にはなりませんね。
あやこ
Posted at 18:15h, 13 10月RAPT さん、丁寧に答えて下さって有難うございます。
とてもすっきりしました。
悪魔はいつも形から入ろうとする、納得です。
私は今まで神社仏閣や偶像に祈ったり、知らなかったとはいえ散々悪魔崇拝の勧める行動をしてきましたから、少し慎重になりすぎているかもしれません。
最近は自分の違和感を大切にしていて、アーメンと言うことや十字を切ることは自分らしくない感じがしていました。
言葉ではなく心ですよね。
心で祈ります。いつも気付きを有難うございます。
明日と楽しみにしております。
RAPTさんに祝福がありますように。