11 8月 「秦氏=ロスチャイルド」は日常的に虐殺と人身供養を行っていた「秦の始皇帝」の末裔です。
先日、京都で毎年行われている「祇園祭」が、実はもともとバアル(悪魔)に幼子を生贄として捧げる悪魔崇拝儀式であったという記事を書きました。
○京都の「祇園祭」はもともと牛頭神バアルに幼子を生贄として捧げる悪魔崇拝儀式でした。
「日本三大祭り」と言われている「祇園祭」が、まさか悪魔崇拝だったとは日本人のほとんどが知らないはずです。
で、私はこの事実を知った後、「秦氏」は他のお祭でも同じように人身供養を行っていたのではないかと思い、ざっと調べてみることにしました。
すると、やはり思った通りでした。以下のような情報を見付けました。
----------------(以下、こちらから転載)
今から2200年ほど前、戦国の中国を統一した秦の始皇帝は、除福から東方海上に蓬莱など三つの神山があり、そこには不老不死の霊薬があると言うことを聞いた。
そこで始皇帝は、その霊薬を求めるように除福に命じ、3千人の童男童女と百工(多くの技術者)を連れ、蓬莱の島に向かわせた。
しかし、その後除福一行は二度と中国に帰らなかった。
東方の島の「宝」を求めて冒険に出るところは、マルコポーロの「ジパングの黄金の島」を求めて欧州人の大航海時代が始まり、やがて白人による世界の植民地分割競争へと繋がった契機に似てる。
しかし、いずれも日本は征服・植民地化されることはなかった。
熊野に渡来した除福一行は、やがて穂の国のこの地方に移り住み、その子孫が秦氏を名乗り、菟足神社(うたりじんじゃ)を創設した。
その為、菟足神社には、日本の他の地域の農耕民族の五穀豊穣の神事とは全く違う、生贄神事が古来より行われてきた。
神社近くの街道に、明治時代には「小田橋」と書かれていた「子だが橋」の哀しい物語もある。
菟足神社の大祭の日には、その日に最初にこの橋を渡る若い女を生贄にする風習があった。
1000年以上も前のある日、生贄を捕まえる役目の人が待っていると、やってきたのは他へ縁付いた自分の娘であった。
彼は、「子だが仕方ない」と娘を生贄にしたという。
やがて人身御供は、猪に代わった。
それでも三河の国司大江定基は、その生贄の残忍な有様を見て出家し、唐に留学、寂照法師となったと菟足神社の境内に書かれている。
----------------(転載ここまで)
この記事では触れられていませんが、実は「秦氏」は間違いなく「秦の始皇帝」の末裔です。
「秦氏」自ら、「秦の始皇帝」の末裔であることを自慢げに語っていますし、その系図まできちんと残されています。(以下、出典はこちら)
この系図の最初に出てくる「非子」とは、中国「秦」の始祖のことです。この「非子」から「秦氏」が誕生したというわけですね。
もちろん、この系図が本物かどうかは私には分かりません。
しかし、「秦氏」が建築などの分野の優れた技能集団であったこと、秦の始皇帝が「万里の長城(最上の画像)」など優れた建築物を残していることなどから見ても、「秦氏」と「秦の始皇帝」に密接なつながりがあったことは間違いないと考えていいでしょう。
また、以下のような記事も見付かりました。
----------------(以下、こちらから転載)
「祭神 秦始皇帝(しんのしこうてい)」
と書かれた由緒書を見て、さすがに目をむいた。始皇帝は紀元前3世紀半ば、「シナ=チャイナ」の語源ともなった大帝国「秦」を築いた大皇帝である。
東映太秦(うずまさ)映画村から、数十メートルほど南側の住宅街にある「大酒(おおさけ)神社」の鳥居のまえで見つけた。
境内には、皇紀2600年の大きな石碑のほかは、小さな社殿がひとつ、鎮座しているだけであった。
由緒書はかすんでいるため、よく判読できない。わずかに始皇帝の14世の孫、功満(こうまん)王が「日本国の純朴なる国風を尊信」し、勧請したと読みとれた。
功満王は、中国の史書にも登場しない。だが『日本書紀』応神条には、功満王の息子の弓月君(ゆつきのきみ)が「己が国の人夫(たみ)百二十県を領(ひき)ゐて帰化(まう)く」というくだりがある。
年号的な問題があるが、5世紀ころ、「百二十県」というから、1万8000人ほどの渡来人が、おそらく新羅からやってきた。
かれらは秦氏と呼ばれた。「ハタ」は新羅語で「海」を意味する。「海の向こうからやってきた人々」といった意味と解したい。
酒造や土木、養蚕、機織り、会計学、舞楽など、さまざまな技術を持っていた。
ヤマト朝廷は、広大な荒蕪(こうぶ)の地であった山城国葛野(かどの)郡に住まわせ、「禹豆麻佐(うずまさ)」という姓を与えた。太秦の地名のはじまりである。
この一族から、聖徳太子のブレーンであった秦河勝(はたのかわかつ)が登場し、いっきに勢力を拡大した。
広隆寺を築き、太子から弥勒菩薩半跏思惟像を賜った。広隆寺は太秦寺とも呼ばれ、大酒神社も当初は境内に鎮座していた。
----------------(転載ここまで)
この記事から見ても、やはり「秦氏」が「秦の始皇帝」の末裔であることは間違いなさそうです。
さらに、こんな記事も見付けました。
----------------(以下、こちらから転載)
鹿児島県 東市来町(ひがしいちき)に太秦(うずまさ)神社というのがある。
この神社のお祭神は秦の始皇帝なのである。
付近一体には秦氏が住んでいたことが伝えられている。
この近くに冠岳(かんむりたけ)という霊峰があります。ここは古代仏教発祥の地であり、真言密教の開祖の地としても知られている。薬草の宝庫でもあります。
その昔、徐福が不老長寿の薬を求めてここにきたと言い伝えが残っています。
----------------(転載ここまで)
この記事では、「秦の始皇帝」と「秦氏」と「真言密教(空海)」の関連性について触れられています。
「秦氏」は神道。「空海」は仏教。
なので、表向きはこの二人には何のつながりもないということになっていますが、実は二人とも同じゾロアスター教の信者でした。これについては、これまで何度か記事にしています。例えば、以下の記事など。
○天皇もロスチャイルドも日本の歴代首相もみんな実はゾロアスター教徒です。
で、この「秦氏」がとある神社で「秦の始皇帝」を神として祀っていた、というわけですから、「秦氏」が「秦の始皇帝」の末裔であることは間違いない事実でしょう。
で、「秦の始皇帝」といえば、ひどく残虐非道な皇帝だった、ということで有名ですよね。
もっとも、ここ最近は「秦氏 = ロスチャイルド」が情報操作を行っているのか、「秦の始皇帝」の残虐ぶりを描いた映画や小説などは余り見かけなくなってしまいました。
なので、若い人たちはこの事実をほとんど誰も知らないかも知れません。
しかし、いくら情報統制しようとも、「秦の始皇帝」がとても残虐な皇帝で、人を人とも思っていなかったことは明らかな事実です。
----------------(以下、こちらから転載)
秦の始皇帝は13歳の時(紀元前246年)に秦王に即位し、陵墓の造営を開始した。
50歳で死んだときにはまだ完成しておらず、さらに2世皇帝が2年間かけて完成させた。
その大きさは東西・南北およそ350メートル、高さ53メートル(完成時の大きさは底部が485×515メートル、高さが87メートル)、一人の皇帝のために陵墓を造り始めてから完成するまで実に40年ほどかかる途方もない大工事だった。
陵墓の下には堅固な地下宮殿がつくられ、膨大な宝物が運びこまれた。
1974年に始皇帝陵から東へ1.5キロほどの場所から巨大な規模の副葬兵馬俑が発見された。
約8000体もある実物大の兵馬俑は陶器質でできており、その表情はまことに真に迫るものがあり、一つとして同じものはない。
その質と量には世界がびっくりさせられた。もし始皇帝陵が破壊や盗掘にあわなければ、その宝物は質・量ともに全世界を驚嘆せしめるものであることは間違いないはずだ。
一人の皇帝の陵墓造営のために多くの犠牲者がでた。陵墓の西南約1.4kmのところにある1020平方メートルの合葬墓地には一面に人骨が厚い層をなしている。
始皇帝はとてつもない大宮殿(阿房宮)の建設にも乗り出した。阿房宮は東西690メートル、南北115メートルの木造建築で、1万人が収容できたという。これは始皇帝の生前には完成せず、秦の滅亡後、項羽によって焼かれてしまった。
阿房宮と始皇帝陵の建設に70万人が動員され、さらに万里の長城建設に30万人が動員された。
始皇帝は自分の墓の造営に70万人も動員できたし、気に入らない人物を極刑にすることも思いのままだった。
韓非の思想が気に入ると、それ以外の思想書を全部焼く命令をだし、違反者を極刑にした。
流言をとばして民をまどわす学者がいるとして、460人あまりの学者を生き埋めにした。
万里の長城の建設という途方もない大規模な工事に農民大衆を動員することができた。
このように中国では皇帝が隔絶した権威をもった。この皇帝が中国の最高権威となり、中国全土が皇帝の権威に服することによって中国の統一と秩序が保てるようになった。
なお、君主が絶対的な権威と権力をもつ体制は、始皇帝からはじまったことではない。
中国に多くの小国家が出現したときから、その小国家では、王が絶対的権威をもち、その権威のもとに国家体制がつくられてきた。
始皇帝が出現する以前でも、王の墓には、死後にも王に仕えるため、数百人が生きたままか、あるいは殺されて埋められた。
王たちは人間を副葬したばかりでなく、自分たちの先祖や神様を祭るときにも、人間を生贄にした。
始皇帝が出現する前にもこのような慣習が1000年以上もつづいており、中国で起こった小国家では、王が絶対的権威をもち、国民全体がそれに服従することによって、国家をつくっていた。
このように国家に統一と秩序をもたらす方式は、中国が始皇帝によって統一される前も後もすこしも変わらなかった。始皇帝が中国を統一して以来、皇帝を最高権威として、中国全体に秩序がもたらされた。
----------------(転載ここまで)
「秦の始皇帝」が人を生き埋めにするのをやめて、代わりに彫像などを埋めるように改革を進めた、その結果、「兵馬俑」には無数の彫像が埋められることになった、などと言う人がいます。
しかし、古代の文献には「秦の始皇帝」が人身供養を行ったり、人を生き埋めにしたりしたとはっきりと書かれてあります。なので、いくらそんな嘘を垂れ流しても無駄です。
○始皇帝の東方巡幸について―立石・刻石・祭祀に関する考察―
で、「秦氏」もまた、このような残虐な「秦の始皇帝」の末裔だったからこそ、幼子や女性を生贄として捧げるような恐ろしい祭事を、平気で執り行うことができたわけでしょう。
そもそも、彼ら悪魔崇拝者にとって、人身供養は欠かしてはならない重要な儀式ですし。
ちなみに、「菟足神社」の生贄儀式の際、若い女性を連れ去ったとされる「子だが橋」にはこんな案内板が掲げられているそうです。
----------------(以下、「子だが橋」案内板より)
『子だが橋』
子断が橋ともいわれ、明治時代には「小田橋」と書いてあった。
およそ一千年前菟足神社には、人身御供があり、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする習慣があったと伝えられている。
ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の人の前を若い女性が故郷の祭礼と父母に逢う楽しさを胸に秘めて、暁の街道を足早に通りかかり橋の上まで来た。
見ればわが子である。
「ああ、いかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに「子だが止むを得ん」と、遂に生贄にして神に奉った。
それからこの橋のことを、子だが橋と呼ぶようになったということである。
現在、菟足神社では、十二羽の雀を贄に替えておこなわれている。
----------------(転載ここまで)
しかし、今ではこの逸話も嘘だとされていて、
「菟足神社の祭りの日には、若い娘が『巫女』となって神に仕えるため社殿に籠ったのですが、元の意味が忘れられ、いつしかそれが神に捧げる生贄話に変化してしまった。」
などといった情報が、地元の広報誌などを通して拡散されているようです。その情報誌は以下になります。
○豊川市 広報とよかわ(最新)
しかし、「秦氏」が悪魔崇拝者であったという事実をこちらはきちんと把握しています。なので、こんなエセ情報をいくら垂れ流しても全くの無駄です。
なお、「秦の始皇帝」の陵墓は、地下30mの深さに作られていて、350m四方の広さの巨大な「地下宮殿」になっているそうです。詳しくは以下のリンクをご覧ください。
○壮大な地下宮殿が眠る秦始皇帝陵
一体、「秦の始皇帝」はこんな巨大な「地下宮殿」で何をやっていたのでしょうか。
まあ、考えるまでもなく、その答えはすぐに分かりますよね。(ヒントは以下のリンクをご覧ください。)
○日本各地に悪魔崇拝のための秘密の地下施設が点在している可能性について。
しかも、この「地下宮殿」は今では発掘調査が中止されています。
表向きには、副葬品が空気に触れると劣化してしまう恐れがあるからとか、副葬品が盗まれてしまう恐れがあるからとか、「地下宮殿」には盗掘を防ぐ様々な罠が施されていて調査をするのは危険であるからとか、様々な理由があると言われています。
しかし、そんなものは全て、ただの言い訳に過ぎないでしょう。
「秦の始皇帝」が残虐な「悪魔崇拝」を行っていて、その証拠が発見されるのを恐れているから、というのが本当の理由ではないでしょうか。
こんなことを言うと、またしても工作員が「トンデモ」と言ってきそうですが、「トンデモ」と言うなら、ぜひ発掘調査を再開して、「地下宮殿」の中を隈なく公開してください。
クラビトーカー
Posted at 21:18h, 11 8月本日は宵の口の記事アップ、まことにお疲れ様です。
博識の rapt さまには蛇足ながら拙のしるところを加えますに・・・
始皇帝は生まれてくる子供の誕生日を占星術師に占わせ、それが十月十日より
早ければ、妊婦の腹を割いて無理やり生ませた、それが「帝王切開」の語源と
なったとの由。
本当は恐ろしい、否、げに本当に恐ろしきは暴君ですね。
ファン
Posted at 03:10h, 12 8月毎日の更新ありがとうございます。
アイヌ人の事をアイヌ語でウタリと言います。
ウタリと聞くとアイヌ人を連想するのは北海道民だけでしょうか?
rapt
Posted at 06:23h, 12 8月>ファンさん。
多分、そうでしょうね。
ウタリというのは「同胞」という意味で、アイヌ民族がアイヌ民族を指していう言葉だそうです。
なので、アイヌ民族以外の人はウタリという言葉は使わないし、知らないのではないかと思います。
私もファンさんから言われて初めて知りました。
ちなみに、この記事に出てくる「菟足神社(うたりじんじゃ)」が、アイヌ民族のことなのかと思って調べてみましたが、どうもそうではなさそうです。
以下、こちらから転載します。
http://spshyukai.sakura.ne.jp/kaiin_jouhou/shayu_message/news/k015/13.pdf
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「うたり」との言葉からアイヌと関係でもあるのかと思い、インターネットで 調べると菟上足尼命(うながみ すくねのみこと)が祭られているとのこと、その祭神の名を縮めて菟足、7 世紀建立の古い神社。
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「うながみ すくねのみこと」を縮めても「ウタリ」にはなりませんけどね。何か他に意味があるかも知れません。
きりぎりす
Posted at 08:23h, 12 8月別の読み方もあるんですかね。
菟上足尼命(うのうえたりにのみこと・うなかみのくすねのみこと・初代穂国造)
転載ここから
http://jinja-kikou.net/noubisan4.html
ショコラ
Posted at 12:53h, 12 8月ここ最近の記事も、スゴイですね。
〇今、「キングダム」という秦の時代を描いたマンガが大人気ですが、何か陰謀を感じます。
その漫画では、秦はかなりカッコよく描かれてますから。
しかも作者は処女作で大ヒット。
〇ギリシャのオリンピック跡地の画像を見ると、リオのオリンピック後や東京のオリンピック後が心配になってしまいます。
〇日航ジャンボの記事はショックでしたが、そういう裏があってもおかしくないし、今後明るみに出るような気がします。
〇あとここの所、スサノオに関するものをよく目にします。展示会とかゆるキャラとか。何か動きがあるのかなあと見ています。
ゆかい
Posted at 20:47h, 12 8月竹内文書の竹内家の現当主竹内睦泰氏が本を出しているようです。秦の字が入っていますね。神道も賛美しているようですが、残念ですが秦氏でしょうか。raptさんも竹内文書は研究されていたとのことで参考までに。
http://www.amazon.co.jp/竹内家長老からの禁則を破って-正統竹内文書-口伝の『秘儀・伝承』をついに大公開!-超☆はらはら-秋山/dp/4864712913/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1439354634&sr=8-1&keywords=竹内+睦泰
小久保順也
Posted at 21:45h, 16 8月兎足神社、地元です(笑)。この神社の東、国1挟んで白山神社がありますね。部落の規模に似合わないでっっかい白山神社が。兎足神社の北西側が何故犬食い部落なのかも合点がいきました。
あと、子だか橋の逸話は、裁き人の書のエフタの時代、エフタが勝利を願う代償としてヤハウェに最初に自分を歓迎する踊りの列の先頭の女性を神殿、当時は幕屋で使えさせるとの誓約をした話に似てますね。よかったら対談してみたいです。BやRKなどの国賊、平塚くんみたいな経験不足とは話など無理です。RAPTさんの抽象度は話せるレベルだと思います。
ミツバチ
Posted at 03:19h, 02 7月岡山の青から赤の例が林原グループの破綻です。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%8E%9F_(%E4%BC%81%E6%A5%AD) バイオ企業でHOZOT(ホゾティ)など臍帯を抗がん剤に利用したやり方を開発した途端に秦氏に赤の長瀬専業に乗っ取られました。お産時に無料で手に入っ胎盤はお金に化けます。悪魔崇拝者お得意の血液ビジネスに似た形ですね。岡京でも一筋縄ではなくちょくちょく争い合っているようです。