11 8月 RAPTブログ読者の証言〈VOL.20〉カトリックや新興宗教に縁を持ちながらも信じられず、RAPTブログでようやく神様を信じるに至った40代女性。
〈RAPTブログ読者の証言〉シリーズの第20弾になります。
今回は、若い頃からカトリックや新興宗教に縁を持ちながらも、どうしてもそれら全てが胡散臭いと感じてしまって、深入りすることができなかった女性の証言になります。
今回のこの証言者のように、様々な宗教に触れながらも、何か怪しげな雰囲気を感じて深入りできなかったという人は、日本人には特に多いのではないでしょうか。
そのため、このラプトブログもその類の一つだと思い込み、きちんと何も調べもしないで、自分の固定観念だけで私の有料記事を最初から拒絶する人がいますが、本当にもったいないことです。
しかし今回の証言者は、そんな中でも最終的にはラプトブログに出会い、本物の神様を見付け、本物の真実を見付けることができ、今では喜びと感謝の毎日を送っておられます。
このように、この世の多くの人々が真に正しいものと間違ったものをしっかりと見分けられる目を持ち、真の幸福を手に入れるようになることを願うばかりです。
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私は小さい頃から絶対的な神様の存在を何故かずっと信じており、寝る前の布団の中で「神様、今日も一日ありがとうございました。明日も護ってください。」というような、ごく短い祈りをしていました。
母方の祖母はお寺巡りが趣味で「覚えた方が良いから」と私に何故か般若心経のお経をくれるような人でした。(3人兄妹のうち、何故か私だけです。)
丹波哲郎にも傾倒していて、よく霊界の話を聞かされたり、テレビで一緒に「大霊界」を観たり、丹波哲郎の本を貸してくれたりしましたが、子供心に気持ち悪く、「これは絶対に違う」という確信がありました。
祖母と母は折り合いが悪く、私が中学に入学する頃に決定的に関係が悪化し断絶してしまい、それ以降はほぼ関わりがありませんでした。
また父の実家は名古屋にあり、その土地では割と名家でお寺の檀家でもありました。
生長の家の何か大きな役割を持って、わざわざ苗字まで変えて家族で満州に渡ったという話は以前メールした通りです。
それも父が私の家に暫く滞在することがなければ一生聞くことがなかった話だと思いますから、これもやはり神様の御計らいのような気がしてなりません。
父方の祖父は私が生まれたのと入れ替えのように亡くなっており、私は父からずっと祖父の魂が守護霊としてついていると言われながら育ちました。
父方の祖母は朝に夕に大きな仏壇の前に座って大声で般若心経を唱えているような人で、遊びに行くと必ず仏壇の前に私達を座らせてお経を唱えながら数珠で身体を撫で回される、という儀式がありました。
大好きな優しいおばあちゃんと思い込もうとしていましたが、正直な気持ちを言えば、どこか痩せた山姥のような恐ろしいイメージがあり、名古屋の家に行くのは楽しみよりも、いつも気が重いことでした。
親戚の人も癖の強い人ばかりで苦手でしたし、強烈な縦社会なので四男坊の父はいつも遠慮し恐縮し、兄や兄嫁達に言われっぱなしで家族皆が肩身の狭い思いをしていました。
母屋が古くて立派な日本家屋でしたが、増築に増築を重ねた迷宮のような作りになっており、いつも迷子になっていました。
思い返すと家全体が暗く、悪い波長に満ちていました。
父の長兄家族が祖母と住んでいましたが、嫁(私からみて伯母)が日赤病院の看護師長で、口の立つ遣り手のまさに人間サタンでした。
祖母は私が小学1年生の夏休みに癌で亡くなったのですが、延命治療の末に散々苦しんで、元々痩せた身体が更に痩せ細って声も出ず、本当に痛ましい死に方をしました。
医療的には出来る限りのことを全てやり尽くしたのでしょうが、決して幸せとは言い難い姿を見ました。
父は祖母の位牌分けをしてもらい、家に小さな仏壇を置くようになりました。
何故か線香をあげたりお茶や水やご飯を供えたりするのは私の役目になっており、(祖父の霊が私についているという理由からかもしれませんが・・・)仏壇の掃除を怠ったりお供えを替えるのを忘れるといつも私だけが怒られました。
そんなこんなで両家の祖母が仏教に強烈に傾倒していた為、私も良い事だと思って般若心経を覚えて毎日のように唱えていたこともありました。
怖がりのくせに霊や超常現象などに元々興味があり、自分にも霊感があったら良いのにと思っていたら、本当に与えられてしまって、思春期頃から金縛や胸や首への圧迫など、霊的に怖い思いをする事が多くなってしまいました。
そういう時は私の顔の前に何か恐ろしい顔があり、至近距離で見られているような気配を感じ、恐怖で目が開けられませんでした。
その度に必死で般若心経を唱たのですが、助かるどころか苦しくなる一方で、どうしようもなく最後に「神様助けて!!」と心から叫ぶと、ようやく解放されるのでした。
今にして思うと助けてくださったのはまさに主なる神様だったのだとハッキリとわかります。
キリスト教との最初の出会いは幼稚園の時でした。
キリスト教系の幼稚園に通い、劇でキリスト誕生をやりました。
私は天使役でした。
また、住まいの近くに教会があり、一度だけ日曜礼拝に参加したことがあります。
何か敬虔な感じを受けましたが、閉鎖的でどこか暗く馴染めず、結局一度きりになりました。
また大学の一般教養でキリスト教史を取り、その時に聖書が必須だったので買いました。
教授はとても誠実な人で話も面白かったのですが、聖書自体は新約聖書のごく一部だけ齧っただけで特に感動も無ければ意味もわかりませんでしたし、退屈な本という印象しかありませんでした(悔い改めます)。
それ以来聖書は実家の本棚に置きっぱなしでした。
結婚式は神社式にも惹かれましたが、結局ホテルに隣接した素朴な小さい礼拝堂が気に入り、キリスト教式で挙げました。
牧師さんが白人のとても優しい青年で、待ち時間の時に、あなたはとても美しく必ず幸せになる人だ、と心を込めて言ってくださり、その言葉が不思議とうわべだけのリップサービスではなく神様からの祝福を頂いた気がしました。
とにかくキリスト教は私の人生の節目節目で必ず登場し、良いイメージがあったものの、いつも深く入り込めずにいました。
しかし次男を誕生死で亡くした時から、どういうわけか頭の片隅に礼拝堂のようなものが出来上がり、何をやっている時でも常にそこで自分が祈っているイメージがありました。
亡くなった子を思う時、仏教や神道はとても暗くて全く結び付かなかったのですが、光や清らかさなどキリスト教的なイメージがとてもしっくりときて、きっと次男はイエス様と共にいるのだという確信のようなものがあり、それが自分でもとても不思議でした。
その時は賃貸のマンション住まいだったのですが、いつか陽当たりの良い小さな礼拝堂のような家を買い、一日中祈っていたいと願うようになりました。
だからきっといつか、多分お婆さんになってからかもしれないけど、自分はクリスチャンになるのだろうと思っていました。
まさかそれが今この歳で実現するのは思いませんでした。
次男が亡くなったのは丁度息子の幼稚園を申し込む時期と重なっていました。
カトリックの幼稚園をしきりと勧める先輩ママがいて、とても惹かれたのですが、その当時よく遊んでいた息子の友達が全員別の幼稚園に行くというので結局見学にも行かず友達の行く園に決めました。
しかしその園での息子の生活があまり良いものでなかったので、やはりカトリックの幼稚園に行かせるべきだったという思いが湧き、下の娘はそこに入園を決めました。
その園はとてもこじんまりとしていて素朴で良い面は沢山ありましたが、園長(年配の女性)がヘビメタ好きでファッションがいちいち悪魔的だったことや、本音と建前に開きがあったり、どうでもいい細かな変な決まりが多かったり、マリア像を無理矢理拝ませたり、外国人の神父さんの日本語がカタコト過ぎて意味不明だったり、とにかく違和感を感じることが多くありすぎました。
それでも一年間は息子の幼稚園と比較してみれば良い事ばかりだったので、只々感謝しかなく、大きな疑問も感じずに過ごしました。
2年目以降、ラプトブログに出会い、ラプトさんの影響で聖書を読み始めたことで、薄っすらと感じていたカトリックに対する違和感が私の中で物凄く色濃くなりました。
幼稚園で娘が一番仲良くしていたお友達が外国人の男の子で、父親(アフリカ出身の方です)がフリーメーソンリーになり、公の儀式やロッヂ内などの様子をFacebookや奥さんを通して沢山見るようになり、丁度ラプトブログでフリーメーソンについて読んでいた頃だったのでその流れも不思議でした。
その一家も敬虔なカトリック信者のはずでしたが、旦那さんがアフリカの呪術を深く信じていることや、生活があまりにも肉的・俗的過ぎて、やはりカトリックには疑問を感じずにはいられませんでした。
もう一人娘が仲良くしていた女の子のママがやはり敬虔なカトリック信者でしたが、全く聖書を読んだことがなく、決まったお題目を唱えるだけの信仰をしており、ラプトさんが仰っている通りだと思いました。
また、ラプトブログに出会う一年程前に、円隣グループの「子育て革命」と銘打った教育系の自己啓発講座に参加していました。
アルバイト先の上司(社長の息子の嫁)が金城幸政に心酔しており、最初はDVD鑑賞会から始まり、彼女主催で講演会が開催され、月一回の半年間にわたる連続講座にも誘われました。
金城幸政というカリスマが子育てに悩む母親を主なターゲットに独自の教育論を展開するというものでした。
その当時、そのアルバイト先の上司を信頼し、互いの家に行き来するようなとても深い付き合いをしていた為、疑い深い私もおっかなびっくりながら妹と参加を決意しました。
妹の方がどんどん深く入って行き、教育系の講座だけでなく「人間学」という、人間の本質に切り込んで深く学ぶ講座も取るようになりました。
妹と話していくうちに、私もそこを学ばないと真実に辿り着けないと考え、一回3万円くらいの高額講座でしたが、救われたい一心で私も遅れて取ることにしました。
当時の私は新興宗教に対して物凄く警戒していて、宗教に嵌まること=騙されることと思っており、それをとても恐れていましたので、金城幸政が円隣は宗教ではないと殊更に強調し、聖書やキリスト教を軽くあしらい馬鹿にしていた為に、愚かな私は逆に安心して信じ、半年間しっかりと通い続けてしまいました。
(しかしそれが後に決定的に悪魔と認定する証拠となり、スッキリと決別できる重要な要素になりましたけれど。)
彼の話は陰謀論や歴史や一般常識の嘘、戦後教育の嘘、現代医学や科学の嘘なども含んでいて、9割は真実でしたから、やはり悪魔は真実をエサにして、残りの1は嘘を混ぜて騙すとラプトさんが仰る通りでした。
しかし回を重ねるごとに、到達する答えが結局は一つであるということに気づき、同じような話で皆感動したり笑ったりしている様子が昔のドリフのコントを彷彿とさせ、裸の王様みたいだと思うようになりました。
するとその頃から何故か円隣の内部事情や金城幸政の裏の顔を知る核心的な人物と繋がりができ、ドロドロの裏事情を知るに至ってすっかり失望し、抜けることになりました。
ラプトブログに出会ったのは丁度その頃でしたが、まだ私の中で色濃く影響が残っており、抜けた自分が間違っていたのではないかと思うことも何度もありました。
しかしラプトさんのカルトの定義やこの世の中のカラクリや闇、キリスト教の真の教えを読んで知るにつけ、円隣が如何に間違っているか、宗教でないと強調しながら完全なるカルトだったと気付き、更には金城幸政が話していたエピソードや内容の中で私が感動していた部分が全部聖書のパクリだとわかったのです。
彼が聖書なんて読んだって救われるわけないのにと殊更馬鹿にして話していたのは、パクリがバレるから皆を遠ざけたいだけだと思い、可笑しくなりました。
それなのに彼は自分をイエスキリストに重ねるような話をしたりもするのです。
完全に偽キリストですね。
やはりラプトブログと聖書にしか真実は無いとはっきりと悟り、妹と一緒に励ましあって信仰を深めていき、母や父、息子にも聖書を勧めていきました。
最終的に皆聖書を通読することができましたが、完全な信仰には至っておりません。
しかし、救いが与えられていることは間違いありません。本当に心から感謝しております。
また、母と聖書の話などを深く話す中で、曽祖父が牧師だったことや、祖父(母の父)が洗礼を受けたクリスチャンだったこと、それなのに姦淫の罪を犯し家族を捨てて出て行ってしまったことなどを初めて聞き、実はキリスト教ととても深い関わりがあったのだと知りました。
(母方の祖母が異様に仏教に傾倒していたのも、そういった経緯からの反動だと、それを聞いて分かりました。)
ラプトさんからの御言葉で、こうして救いの道に導かれたのは先祖に義人がいたお陰だと知り、祖父母は罪を犯したけれど曽祖父かそのもっと前の先祖がきっと義を積んで下さったのだと思い、毎日のお祈りで感謝を伝えております。
私は次男を亡くした時に自分も生死を彷徨いましたが、その朦朧とした意識の中で沢山の神様のしるしとサタンのしるしを見ました。
でも次男の亡骸を胸に抱いた時に、絶望しきった私の中に、ものすごく大きな愛のような、エネルギーのようなものが注入されたのを感じ、何かとてつもない深い理解が与えられて、打ちひしがれた心が光に変わったのを感じました。
その時は漠然としていてよくわからなかったのですが、当時の理解では物凄く強力なエネルギーパックを次男から渡されたのだと納得していました。
いま、ラプトさんを通して御言葉を学びながら、全ての答え合わせをしている感じです。
改めて振り返ってみると、幼い頃からサタンが全力で私の人生を汚染し、神様から引き離そうとしていたのがよく分かります。
本当に導いていただけたことが奇跡でしかなく、感謝を感じずにはいられません。
本当に神様は偉大です。
その一番近くにいらっしゃるラプトさんも偉大です。
この場を借りて心から御礼を申し上げます。ありがとうございます。
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ここまで様々な宗教に縁を持ちながらも、自分の直感だけで何かおかしいと思い、それに深入りしなかったということは、やはりそれだけ神様から守られてきたという証拠でしょう。
しかも、このように幾つもの宗教を拒絶しながらも、ラプトブログだけはきちんと受け入れることができたということも、これまた神様から守られているという証拠だと思います。
このようにして、真に心から真実を求めている人には、神様が必ず真実な答えを下さるということなのです。
しかし、心がネジ曲がり、最初から真実を求めようともしない人たちは、いつまで経ってもこの世の嘘と真実を見分けることができず、真の幸福に出会うことができません。
そうしておいて、真実に出会って喜び感謝している人たちを見て嫉妬し、悪口を言い、自らをさらなる不幸のどん底へ突き落としていくことになるのです。
しかも、我々を嘲笑っていい気になっているつもりが、彼ら自身がかえって我々から嘲笑われ、大いに恥をかくハメになります。
実際、もう既にそのような状況になってきていますね。
ということで、これからも引き続き読者の皆さんからの証言を募集いたします。
どうぞ奮ってご応募下さい。
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