11 10月 本物の宗教は人の徳を高めますが、カルトは人の徳を貶めます。しかし、なぜかこの世にはカルトに入って活躍し、光り輝く人がいます。
現代の世の中では、神様を信じようと思えば、いくらでも信じられるような理論を引っ張り出してくることができますし、神様を信じないようにしようと思えば、いくらでも信じられないような理論を引っ張り出してくることができます。
現代社会においては、科学で証明できるかどうかが、何かの物事を真実かどうか判断する一つのものさしになっているようなところがありますが、当然、神様の存在については、現代科学で証明できるようなものではないので、今のところ科学的には神様の存在には根拠がないとされています。
しかし、科学者の言うことなど、時代が経つにつれてコロコロと変わります。十年前には定説であったことが、今では全くのデタラメだったと分かっていることが五万とあります。ですから、科学で証明できないからといって、それをすぐさまデタラメだと断定することはできません。それこそ数百年後には、地球から万百億光年も離れたところに天国があって、そこに神様がいた……なんて話になっているかも知れませんし。
ですから、神様がいるかいないかについて、いくら議論し合っても単なる水掛け論で終わってしまいます。いつまで経っても議論は平行線を辿るばかりで、結論は出ません。そうして結局、信じる者は信じたまま、信じない者は信じないままで終わりになります。
要するに、神様を信じたい人は神様を信じるし、神様を信じたくない人は神様を信じない、というのが現状なのです。
もっとも、この日本には無神論者を自称する人が大勢いますが、私が見るにつけ、口先では神様を信じないと言いつつも、心のどこかで神様を信じている人が大半ではないかという気がします。だからこそ、正月には初詣に行って願い事をしたり、正月だけに限らず、何か事あるごとにお参りに行ったりするわけでしょう。
また、ひそかに何らかの宗教団体に所属したり、あるいは個人的に宗教書を読んだり、自己啓発の本を読んだりしている人も大勢いると思います。
私はそれらのいずれも悪いことだとは思いませんし、それはそれで人それぞれでいいのだろうと思います。人それぞれ自分が探したいと思う真実(真理)を見付け出し、人それぞれ神様だと思う神様を信じればそれでいいのです。
この世の中には、神様を信じるのは弱い人のすることだ、という風潮がありますが、私はそうは思いません。(この風潮すらも実は悪魔崇拝者が作ったものではないかと私は考えます。彼らはことごとく神を否定したがりますので。)人はやはりそれなりに精神的なよりどころが必要です。人はどんなに強がっていても、所詮、弱いものです。しかも、人に頼って解決できることとそうでないことがあります。また、人にはどうしても相談できない悩み事もあります。
そんなときは神様にこっそりと願い事をして、問題を解決してもらいたいと思う気持ちが湧いて当然です。そして、その願い事を叶えてもらうために、日頃から善い行いを積んでいく……というのが信心と呼ばれるものなのですが、おおよその人の心の中にはこのような信心があるものと私は思っています。
第一、本当に何の利益も求めずに、ただ善行だけを積める人間などいるわけがありません。今でこそ自分の行いには何の報いもないけれども、いずれ報われるだろう、もしかしたら死んだ後に報われるかも知れないけれども、それはそれで構わない……。そういう思いが心のどこかにあるからこそ、人は善行を積むことができます。そして、このような心を一般に「美徳」と呼びます。
しかし、悪人にはこのような心がありません。悪人はただ目先の利益しか追求しないからです。
また、本物の宗教はこの「美徳」を教えますが、カルトはこの「美徳」を教えません。一応、カルトも口先ではいいことを言いますが、その実、心の中では「現世利益」だけを求めています。目先の利益だけを追い求めています。宗教の教理を使って、あるいは信者を使って、自らの欲望を満たそうとしているのです。
残念なことに、現在では(創価や統一教会など)大きな宗教団体の多くが、金融ユダヤ(悪魔崇拝者)に乗っ取られ、カルトと化しています。悪魔崇拝者たちは常にこの世の宗教を破壊し、モラルを破壊しようと企んでいるからです。しかも、その宗教団体を乗っ取った暁には、その教団を自らの悪事を働くための拠点として利用しようとさえ考えています。
そのため、この世の中からカルトが後を絶ちません。いいえ。例え悪魔崇拝者に乗っ取られていなかったとしても、その教団のトップが信者たちを使って私腹を肥やそうとしているならば、やはりそれもまたカルトだと私は見なします。そういう人がトップにいれば、当然、その団体に所属している人は地獄のような思いを味わうことになるからです。
たまに無差別に宗教そのものを叩く人がいますが、私はそういう人のこともまた一種のカルトと見なします。そういう人は、無宗教という宗教に人々を勧誘しているに他ならないからです。その無宗教によって、誰かが不幸になってしまう恐れがありますので、無差別に宗教そのものを叩くこともまた極めて危険な行為だと私は考えます。
人にはそれぞれその人に合った宗教を選び、信じる自由があります。その権利を剥奪することはあってはなりません。神を信じるのも信じないのも、どんな宗教を信じるかも全ては人それぞれの自由です。これが私の基本的なスタンスです。
ただし、この世の中には本物のカルトに洗脳されて、地獄のような辛い思いをしているのに、この宗教しか救いがないと思っている人がいます。それが大きな問題なのです。もちろん、金融ユダヤに乗っ取られたカルトの中にはそういう人が大勢います。
私はそういう現実が許せません。ですからカルトを叩くのです。私がそうやって叩くことによって、そのカルトの中にいる信者たちが傷付くことになるかも知れませんが、それはそれで、その人にとっては必要な傷だと考えます。早くカルトをカルトだと気付いて、そのカルトから抜け出し、悪魔の影響下から逃れた方がいいからです。
宗教とは本来、人の徳を高めるためにあるものです。しかし、カルトは人の徳を高めることができません。カルトは口先だけ良いことを言い、その行いは悪だからです。
世の中ではこのような人のことを一般に「偽善者」と呼びますが、カルトのトップや指導者だけに限らず、カルトを信じてはまった人もまたいずれ彼らの影響を受けて、自分自身も「偽善者」になっていきます。
そうして、自分の中にどんどん矛盾を抱え込むようになり、あるとき突然、本当に気が狂ってしまうわけです。しかし、そのときにはもう既に手遅れです。仮にその人を精神科に連れて行こうものなら、薬漬けにされて廃人になってしまうだけですし……。
もっとも、こういう人はもはや自業自得としか言いようがありません。その人がもともと「偽善者」の気質を持っていたからこそカルトにはまり、カルトの中で活躍し、カルトの中で光を放っていたのでしょうから。カルトの中では「偽善者」しか活躍の場がありません。
「偽善者」でない人が、例えカルトの中で活躍の場を与えられたとしても、光り輝くことはないでしょう。ですから、「偽善者」でない人はカルトの中で次第に辛い思いをするようになります。居場所を失い、窮屈さを感じるようになります。で、もしかしたら自らそのカルトを離れていくことになるでしょう。そうなればもっけの幸いです。
しかし、それでも洗脳が深く進行しているために、そのカルトから離れられない人がいます。このカルトの中でさんざん辛い思いをし、さんざん肩身の狭い思いをしているにもかかわらず、それでもそのカルトにしがみつく人がいます。それが大きな問題なのです。
もっとも、例えそういう人があなたの身近にいたとしても、あなたがその人と真摯に向き合っているならば、いずれその人はカルトをカルトと気付いて、自らそのカルトから離れていくでしょう。ですから、真摯にその人と対面し、カルトが陰でどんなことをしているのかを詳しく説明していくことが重要です。無理やり説得しようとする必要はありませんし、そうしてはいけません。それが私の出した結論です。
第一、本当に自分の徳を高めたいと思っている人なら、いくらカルトに一時的に騙されたとしても、実際には全く徳が高くならず、むしろ「エゴ」ばかりが刺激されるので、すぐに何かおかしいと気付くはずです。
もし誰かがカルトにはまり、カルトをカルトと気付くこともなく、そのカルトの中で活躍し、光を放っているのなら、その人は典型的な「偽善者」です。ですから、その人を無理やりカルトから引っ張り出そうとしても無駄です。「偽善者」は所詮、「偽善者」たちと気が合い、波長が合います。彼らは「偽善者」たちと共にいるときに安楽を感じ、幸せを感じるものです。
そして、そういう人はいずれその行いに見合った報いを受けるでしょう。
ですから、私はどんなカルトに所属している人に対しても、無理にカルトから離れさせるつもりはありません。ただカルトが裏で何をやっているか、その事実を淡々と伝えていくだけです。私がいくらそのような記事を書いて見せたとしても、その人がまだカルトにはまり、カルトで活躍しつづけるなら、その人はそういう人なのです。
その人は本当の「美徳」を求めて宗教を信じているわけではなく、ただその宗教団体に属することで得られる御利益(と呼ばれる現世利益)を求めているだけです。
したがって、彼らは自分たちが悪魔に都合のいいように利用されているだけだということに、いつまで経っても気付くことはないでしょう。そして、あるとき突然、破滅が襲いかかってくるのです。
ですから、私たちは常に本当の「美徳」が何なのかを追求しなければなりません。そういう心を持っていてこそ、頭の中も聡明になり、物事を理路整然と考えられるようになります。そうすると、カルトに騙されることもありませんし、むしろカルトをカルトだと見抜きます。
自分自身、心の中に矛盾を抱えていれば、相手の矛盾にも気付きませんが、自分自身、心に何の矛盾も抱えていなければ、相手の矛盾にもすぐに気付くものです。だからこそ、悪魔崇拝者たちの企みにも早く気付くことができます。悪を退治するためにはやはり善の心なしには不可能なのです。頭が良いだけではダメなのです。
一読者です
Posted at 22:20h, 11 10月カルト宗教だけに限りません。
世の中に仏教やキリスト教などいわゆるまともだと思われる宗教もあるとされていますが、やはり、人々を支配しようとする輩が、根源的なところをねじ曲げていますので、害は少ないにせよ、有益なものではないと思っています。
また、今の政治・経済は無論のこと、文化の隅々まで、カルト宗教の総元締めが実は取り仕切っていますので、身の周りにある情報で、本当に信用できるもの、素直に受け入れられるものはほとんどありません。
いわゆる自己啓発的なものは、すべて危険だろうと思います。
人間が本来持つ能力に、蓋をしているのが、カルト宗教の総元締めです。
私は、すべての身の回りの情報をシャットアウトして、自分の心を通じて、目に見えぬ偉大な力との対話をしてみるべきだと考えて、実践しようとしています。なかなかうまくはいきませんが…。
立石
Posted at 22:51h, 11 10月>一読者さん
その根源的にねじ曲げられたものが何なのか解明できればいいわけですから、最初から全てをダメと切り捨てるよりは、むしろ色々なものに当たってみて、その中から真に正しいと思えるものを見付け出せばいいのではないでしょうか。
最初から心に蓋をしていると、何も調べられず、自分だけの狭い世界で終わってしまいますし、この世の中、そんなに悪いものばかりが満ちているわけではないと思います。
陰謀論ひとつにしても、最初から心に蓋をせず、色々と手探りしながら調べていったからこそ、今のようにある程度、解明できるようになったと思いますし。
一読者です
Posted at 19:42h, 12 10月立石さん、ありがとうございます。
最初から心に蓋をしていたわけではなく、50年以上長いこと生きて、いろんな本を読んだり、話を聞いた結果、
やっと、信頼できる何人かの方の考えに出会い、書かせていただいたような思考に至ったわけであります。
そのうちの1人はリチャードコシミズさんなのです。
悪天醜否子
Posted at 05:59h, 13 10月良い宗教と悪い宗教が有るから対立が起こってしまうわけです。
それでも宗教が現代でも必要だと言い切りますか?
聖書が本当に書き換えられたりしていないなら、宗教の力が例えなくとも、聖書はベストセラーになっていたわけです。
宗教があって、言葉、文字が出来、文明が発達し、文化が有るというのはわかります。
しかし、インターネットや交通機関にこれほど恵まれている現代で、これまでがそうだったからこれからもそうだとはどうしても思えないのです。
あくまでも無宗教である私の中で神様の定義は、宇宙を創造したであろう人物です。
その視点に立ってもう一度考えを改めて見てほしいです。
RAPT
Posted at 06:16h, 13 10月本物の宗教は戦争など起こしません。これまで起きてきた全ての宗教戦争は、悪魔崇拝者が起こしたものです。彼らが様々な宗教の中に入り込み、敵も味方も操って戦争を起こしてきました。それは第一次大戦、第二次大戦などと同じ構図です。彼らは敵も味方もすべて操り、戦争で金儲けし、人を殺して楽しんできたのです。
本当に宗教を知っている人は、戦争などしません。あくまで善しか行いません。もし戦争をしたがる宗教があるなら、それはカルトです。間違いなくその宗教には何らかの裏があります。
無宗教の人はその辺のことを完全に誤解しています。マスコミや教育によってそう洗脳されているのです。その洗脳から抜け出してください。信仰を持っている人たちは皆、そのような誤った情報によってとても困っているのです。
また、この宇宙を作ったのが神様であるという考えは、ほとんどの宗教もまた同じです。たまに教祖を神とする宗教がありますが、神の代理というならともかく、誰か特定の人を唯一神とする宗教もまたカルトと私は考えます。
私はあなたが無宗教であろうと特に批判はしません。あなたが信じたい神様を信じればいいのです。ブログの中でもそう書いています。
悪天醜否子
Posted at 15:03h, 13 10月>>全ての宗教戦争は、悪魔崇拝者が起こしたものです。彼らが様々な宗教の中に入り込み、敵も味方も操って戦争を起こしてきました。それは第一次大戦、第二次大戦などと同じ構図です
宗教戦争に限らず、良い宗教だと信じて疑わない善意の信者さんたちからの心の篭ったおさい銭が全く知らない間に、軍事費用に回されている可能性も有るわけです。
良い宗教団体の中に悪魔崇拝者が入りこんで操られてしまうのであれば、冗談抜きで、ますます危険だと思いますよ。
だって、良い宗教で、良い行いしかしてないと思っていても、その大勢のエネルギーや金銭は、悪魔にも利用されてしまうわけですから。
本人達は個人では、良いことしかしていない、俺達のせいじゃない。と信じて疑わないわけですよね?
これほど情報に富んだ世の中です、殆どの宗教がこの宇宙を作ったのが神であるという考えなのに、宗教団体の教議でしか善を学べない、行えない、というのは、大変依存的で悪魔にとって好都合だと思いますよ。
rapt
Posted at 15:10h, 13 10月ですから別にどこかの宗教団体に入れとは言っていませんが……。
宗教書でも読んで、知識を蓄えた方がいいと言っているのです。
http://rapt.sub.jp/?p=16236
とにかくカルトがあるからいけないわけで、だから私はカルトを叩いているわけです。
あなたのように全ての宗教がいけないといって叩いたら、宗教で救われている人が逆に辛い思いをするのですよ。
あなたはその責任をとれるのですか。
だから、無差別に宗教を叩くなと言ってるのです。
そもそも、宗教があるから戦争がある、だから宗教はない方がいいと言っていたら、
国があるから戦争がある、だから国はない方がいいと言ってるのと同じ。
で、悪魔崇拝者はこの国という概念を撤廃し、世界統一政府を作ろうとしているわけです。
http://rapt.sub.jp/?p=16269
タク
Posted at 16:05h, 23 10月RAPT様
はじめまして! タクと申しますm(__)m
三日ほど前に『田布施システム』を検索していたらこちらに辿り着いた者です。
最初は半信半疑に読ませて頂いていましたが、あっという間に引き込まれ、むさぼり読ませて頂いているような無知者です。
この回では宗教のことがクローズアップされていましたので一言したくコメントさせて頂きました。
神仏が本当にいるのかどうかという点に関していえば、間違いなくいると私は確信しています。
私の両親はRAPTさんの批判されていた真言密教の家系であり、私もそのことを自認してきたのですが、そんなことはもうどうでも良いことです。
15年ほど前のことですが、私が当時大変辛かった時に夢の中に不動明王様が現れ啓示されたことがあります。
そして、不動明王様には形はありませんでした。これは非常に重要なことです。
形が無いのにお不動様だと認識できたのは、これは直感的に分かったとしか言いようがありません。
証拠も立証することも出来ません。でも、間違いなく、あれは不動明王様が本当に私を心の葛藤から救って下さったのです。
ついでに申し上げれば、もしかしたら、私にとっては不動明王様だと直感したものはRAPTさんにとってはキリスト様だと直感されるかもしれませんね。
それ以後、その当時あった死にそうなほどの葛藤は見事に消滅してしまいました。これは紛れもない事実です。
あの時の感覚を私なりに表現するとすれば、セックスなどの欲望とは本質的にかけ離れたものです。
あれは、子供の頃に母に抱かれ安心しきっていた感じを何百倍にもしたような、例えようもない優しさと穏やかさ、つまりは広大な愛に包まれたような感じでした。それは本当にリアルな体験だったのです。
私はドラッグをやったこともありませんし、精神を病んだこともありません。精神はいたって丈夫だと自認しております。
あのような感覚で戦争だとか争いを起こすなどということは絶対にありえません。それは断言できます。
だから、RAPTさんのおっしゃるように、過去争い事を引き起こしていたのはルシファー率いる悪魔だったに違いありません。
私もずーっと仏像や剃髪といったものに違和感を感じておりました。いえ、さらに言えば、キリスト教は偶像崇拝を否定している筈なのに、どうしてイエスの磔刑像やマリア像を据えるのか、非常に疑問でした・・・。
イエス様の像など磔刑姿ですからね。これってどうにも不思議でしたよ・・・。
仏教は執着心を失くすこと、空の理解がその本質なのに、どうして一生懸命仏像を拝んでいるのか?
お釈迦さまは明らかに剃髪などされていなかったようなのに、どうして剃髪する必要があるのか?
修業中の坊主たちがどうして酒池肉林に明け暮れている、あるいはそんな噂が立つのか?
どうして、葬式に坊主がしゃしゃり出て来るのか? あんなにも金をお布施と称して受取り、一切返そうともしないのか?
どうして、国によって税金が免除されているのか? お金を持っているのは明白で、広大な敷地まで所有しているのに。。
しかし、こうして、RAPTさんの記事を拝見するにつけ、その謎が、分厚くて剥けなかった皮が見事に剥ぎ取られて行くように解けて行ったように思います。
まだまだ、田布施システムすらその存在を知ってほんの三日のとんでもない無知者でしたので、正直混乱しております。
密教が真如苑や私が通っていたカルトの寺を生み出していて、しかも日本の仏教というものがほとんど仏像を崇拝している現状、剃髪している現状、日本や世界の中枢が悪魔崇拝を根っことして密教もその姿を変えた仮面だと知って、私の真言密教、いえ、現存する仏教組織への信頼も揺らぎつつあります。
まあ、今の宗教は組織となった時点で怪しくなる傾向にあるのは何となく直感していたのですけどね。
どうか、これからもこれらの素晴らしい記事の続きをよろしくの願いしますm(__)m
それと、私はアメブロでほそぼそとブログを書かせて頂いているのですが、そこに是非RAPTさんのサイトを紹介させて頂きたく思います。
真実を伝えるべく、その一助になれればと思いますので、どうぞよろしくお願い致しますm(__)m