RAPT | すぐに「できない、できない」と言う人は謙虚なのではなく、自信がないわけでもない。むしろ高慢なのである。
謙遜 高慢 指摘 嫌 受け入れる 成功 失敗 好印象
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すぐに「できない、できない」と言う人は謙虚なのではなく、自信がないわけでもない。むしろ高慢なのである。

すぐに「できない、できない」と言う人は謙虚なのではなく、自信がないわけでもない。むしろ高慢なのである。

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この世の中には、何かを指摘されると、すぐ「自分にはそれはできない」と答える人がいます。
 
一見すると、その人は自信がなくて、本当に能力がないと思ってそう言っているように見えます。ですから、周りの人たちもこの人には何を言っても無駄だと思って諦めるようになります。
 
しかし、何事もすぐ「できない」と言う人は、本当に自信がないのではなく、本当に能力がないわけでもなく、ただ単に高慢なだけ、という場合が大半です。
 
なぜなら、指摘されたことを心から受け入れて、自分は間違っていると認め、その間違いを治そうと思うなら、その人の口から出てくる言葉は「できない」ではなく、「やってみます」となるはずです。
 
しかし、「やってみます」と言わずに、すぐに「できない」と答えるのは、その指摘を心から受け入れていない、あるいは受け入れたくないと思っている証であり、どうして受け入れないのか、受け入れたくないのかといえば、その人が高慢だからです。
 
誰でも人から指摘されるのは嬉しいことではありません。むしろ嫌なことです。しかし、それでもその指摘が正しいかも知れないと一度冷静に考え、受け入れてみる謙虚さは人間として必要なことです。
 
その上で、その指摘が自分には当てはまらない、と思うのなら、それは本当に当てはまらないのでしょうから、その場合はその指摘を受け入れる必要はありません。むしろ、受け入れるべきではないと思います。
 
しかし、少しでもその指摘が当てはまる、と思うなら、謙虚にその指摘を受け入れるべきです。その方が心も楽になりますし、もし指摘された部分を治すことができれば、周りからも好印象を持たれるようになるでしょう。そしてその人自身、自分の進歩を感じて喜び、人生をさらに充実して生きられるようになります。
 
しかし、そのような謙虚さを持てず、人の指摘を受け入れようとしないなら、その人はいつまで経っても成長できず、周りからも不平を言われつづけることになるでしょう。誰かから指摘された時点で、その人は指摘されるような何かを抱えているという証拠なのですから。
 
仮に10人中10人がその欠点に気付かなくても、少なくても1人か2人、最悪の場合、5人、6人、あるいは8人、9人がその欠点に気付いて、何らかの不快な思いをしてしまう可能性があるということです。
 
そして、それはその人にとってとても不幸なことです。本当はその指摘を受け入れて治した方が、その人にとって幸せなはずなのですが、その人自身がその指摘を受け入れない(もしくは受け入れたくない)わけですから、周りの人たちもどうすることもできません。ただ黙ってその人が不幸になるのを見守るしかないでしょう。
 
ですから、もし自分が少しでも人から指摘されて「できない」と思ったり、「できない」と口に出して言ったりすることが多いようでしたら、一旦、立ち止まって冷静に考えてみてください。もしや自分は高慢になってはいないだろうか、と。
 
そもそも、よく「できない、できない」と言う人に限って、自分のことを謙遜な人間だと勘違いしている場合が多いです。
 
「できない」と思うことが本当の謙遜ではありません。「できない」と思う前に、先ずどうすればその指摘を治すことができるのか、と真剣に考えるべきです。それこそが本当の謙遜です。
 
私の経験からすると、むしろ「できる」と自信満々に言う人の方が、かえって自分の間違いを素直に認め、その間違いを治そうとしている場合が多いので、本当に謙遜だったりします。
 
私としては、ちょっとぐらい偉そうに威張っていても、心から自分の間違いを認められる人の方が好きです。できれば、そういう人と一緒に仕事がしたいです。それは私だけではなく、他の誰もが同じなのではないでしょうか。
 
もっとも、謙遜であり続けるのはときに非常に難しいものなのですが、それでも敢えてその難しい道を行くときにこそ、本当の成功の道を歩むことになるのです。
 

1Comment
  • モダンガエル
    Posted at 11:45h, 28 12月

     思わず、膝を打ちました。当を得た解析ですね。
     新人教育を職場で任された時には、まさしくこのような「高慢」さに( ←当人共は無自覚なまま )出くわすことばかりでした。今どきの若者の、一番悪いのが目の前に居るのだ、と自分に言い聞かせる他ありません。とりわけ、「出来ないのは周りのせい」という不快感のまき散らしには、本当に辟易させられました。
     食生活も、彼ら彼女らは滅茶苦茶です。いいお給料のはずなのに、自分では作ることをせず、朝食から買い弁づくし。多分コスト削減のおむすびや加工品は添加物だらけの偽装食品で、心すらも蝕まれていたに違いありません。仕草といい、言葉遣いといい、出身大学の世間で認知されるイメージに泥を塗るのに十分なほどの、行動様式でした。常に、思考力がストップという状態でした。就職戦線を勝ち抜いてこれ?では、落ちてしまったまともなかた(!)に申し訳なくない?というように、傍らでは感じさせられていたものです。
     そんな中、今日の日曜のラジオは往年の子供相談室仕立ての番組の中で、阪神淡路大震災も、10代は、「知らない」と言っていました。
     
     事実を受け止めるなら、もはや、学校教育の不足も家庭教育不在も、糾弾の対象ではないと思いました。
     大いに、10代にはネットに直接当たって、砕けてもらうも自由ですが、阪神淡路の大震災の震源の不可解さも、この間からの列島の複数の不自然な火山噴火も、今ならその作為に満ち満ちたおぞましい真実を、ネットが教えてくれると信じます。むしろ学校教育では触れてもらえない事実が明るみになるに違いありません。

     20代以降は、社会にまみれながら、生き方の高潔さを追求することが困難にぶち当たるたびに不可欠になるに違いありませんから、初めは「高慢さ」で売っていても、うまくいかなさの先にこそ「謙虚さ」への回心が待ってくれていると信じます。日本人ならば。
     
     と、ここまで書いて、ユダ金の思考様式・行動様式は一体・・・と考えさせられています。

     

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