RAPT | ジャンヌ・ダルクと共に戦い、悪魔崇拝のかどで処刑されたジル・ド・レ。1000人もの少年を性的嗜好と降霊のために殺害した男の記録。
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ジャンヌ・ダルクと共に戦い、悪魔崇拝のかどで処刑されたジル・ド・レ。1000人もの少年を性的嗜好と降霊のために殺害した男の記録。

ジャンヌ・ダルクと共に戦い、悪魔崇拝のかどで処刑されたジル・ド・レ。1000人もの少年を性的嗜好と降霊のために殺害した男の記録。

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一昨日と昨日と、続けて日本の一部地域で信仰されていた人肉食信仰「クロ宗」についてのお話をしました。
 
イエズス会と真言密教と浄土真宗と人肉食信仰「クロ宗」の奇妙な接点。フランシスコ・ザビエルを日本に招いた「ヤジロウ」から分かる悪魔教の現実。
 
イエズス会とキリシタン大名が行った数々の悪行。彼らの信じる神は悪魔教の神「太陽神」と「八岐大蛇」でした。
 
日本でこのような「悪魔崇拝」とも思われる儀式に関する話はとても珍しく、日本人にとってはやや耳慣れない話なので、驚かれた方も多かったかも知れません。
 
そもそも、日本人は「悪魔崇拝」がこの世で夜な夜な行われているということすら知らない人が大半ですからね。
 
しかし、西洋では「悪魔崇拝」というものは、割と多くの人たちに知られています。
 
この世の支配者たちが「悪魔崇拝」をしているという話には多くの人が眉に唾をつけるかも知れませんが、この世で「悪魔崇拝」を陰でコソコソと行っている人がいるということは、西洋の人なら、その多くがあり得なくもないと思っているのではないでしょうか。
 
実際、西洋の歴史上の人物の中には、実際に「悪魔崇拝」を行ったとされ、今でも語り草になっている人がいます。
 
その人物とはズバリ、「ジル・ド・レ」と言います。
 
と言っても、日本人には余り聞き覚えのない名前かも知れません。しかし、この人物はかの「ジャンヌ・ダルク」と共に戦い、数々の武勲を立てた有名な人物です。
 
なので、フランス人からは「救国の英雄」とも呼ばれているようです。
 
しかし、この「ジル・ド・レ」もまたフランシスコ・ザビエルを日本に招いた「ヤジロウ」と同様、人生の最後に道を大きく踏み外してしまいます。
 
もっとも、「ヤジロウ」も途中で人生の道を踏み外したのではなく、最初から踏み外していた可能性が高いと私は見ているわけですが……。
 
それと同じく、この「ジル・ド・レ」もまた、表向きには人生の最後に道を踏み外した、ということになっていますが、本当のところは最初から道を踏み外していたのではないでしょうか。少なくとも私はそう疑っています。
 
どういうことなのか、詳しく見てみましょう。先ずは以下の記事を御覧ください。
 
----------------(以下、こちらから転載)
 
マルキ・ド・サド(註:フランスの小説家)が敬愛した男、ジル・ド・レ。『青髭』のモデルになったことでも知られる彼は、少年たちを残虐に殺害した。犠牲者の数とその所業は多分に誇張されているとの批判もあるが、その伝説は永遠に語り継がれて行くことだろう。
 
1404年、ナント近郊のシャントセ城で生まれたジル・ド・レは、たった一人の世継ぎであり、従って輝かしい将来を約束されていた。
 
父ギイ・ド・ラヴァルは名門ラヴァル家の家長であり、母マリー・ド・クラオンもフランス王国屈指の貴族だった。両親はそれぞれブルターニュからポワトー、更にはメーヌからアンジューへと至るフランス西部一帯にまたがる広大な領地を所有していた。その世継ぎであるジルは、フランス王国で最大の勢力を誇る領主となる筈だった。
 
1415年、父ギイが死亡し、これを追うように母マリーも亡くなると、途方もない財産を相続した幼い世継ぎは、母方の祖父ジャン・ド・クラオンに引き取られた。この祖父は、悪い人ではなかったが、小児性愛の気があった。ジルが男色に目覚めたのはこの祖父のおかげである。
 
やがて、自らの意思とは関係なく従姉妹のカトリーヌ・ド・トゥワールと結婚させられたジルは、ティフォージュの城に居を構えた。しかし、幼な妻には眼もくれず、側近の少年たちと放蕩三昧の日々を送るのであった。
 
そんな自堕落なジルであったが、やがて転機が訪れる。聖少女ジャンヌ・ダルクと出会うのである。
 
1429年、シャルル7世に呼ばれたジルは、宮廷でジャンヌ・ダルクという少女に引き合わされた。そして、この聖少女の大天使のような威厳に圧倒されてしまう。もともと信仰心の厚いジルである。彼はジャンヌに忠誠を誓い、以後、彼女の良き右腕となるのであった。
 
2人は百年戦争で数々の輝かしい武勇伝を残した。ジルはこの武勲により陸軍元帥の称号を授かり、併せて家紋に王家の百合が添えられるというこの上ない名誉も頂戴した。
 
しかし、ジルの栄光はここまでだった。ジャンヌ・ダルクがイングランド軍に捕らえられ、火あぶりにされてしまうのである。盟友を失ったジルは苦悩する。そして、再び放蕩三昧の生活に舞い戻って行くのであった。
 
芸術と奢侈をこよなく愛したジルは、世界中の豪華な美術品を買い漁り、連日のように盛大な宴を催しては、その莫大な富を蕩尽していく。数年後にはフランス随一とまで云われた財産を使い果たしてしまう。彼が錬金術に魅せられたのはこの頃からである。
 
思うに、ジルが黒魔術に傾倒し、悪魔との契約に熱心になったのは、ジャンヌ・ダルクの命を奪い、彼の忠誠を裏切った神への背徳が主な理由であろう。
 
しかし、それは同時に彼の内なる嗜虐心をも充足した。ジルは悪魔への生贄として少年の心臓を捧げた。(註:昨日も言いましたが、フランシスコ・ザビエルの肖像画が持っている心臓も、やはり悪魔に捧げる心臓と考えられます。)
 
この行為がよほど刺激的だったのだろう。やがてジルは、悪魔のためではなく、専ら己れの欲望のために少年をなぶり殺すようになる。その数は300人と云われている。(註:最終的には1000人を超えたとも言われています。)
 
「遂に子供たちが死んで倒れると、レエ侯は彼らを抱き締める。そして、肉体を開かせ、はらわたを眺めて楽しむのだった。最後には、極限にまで興奮しようと泥酔したレエ侯はどさりと倒れる。召し使いは部屋を掃除して血を洗う。主人が眠っている間、彼らは一枚一枚焼くのにおおわらわだった。彼らが云うところによれば、『悪臭を防ぐため』だったという」(ジョルジュ・バタイユ著『エロスの涙』より)
 
これだけの数の行方不明者が出れば良からぬ噂がたつのも道理。近隣では領主の人喰いの噂で持ちきりになった。
 
これがやがて大司教の耳にも入る。内密に調査が行われ、やがてド・レ侯は確かに失踪事件に関与している旨の報告書が提出された。しかし、侯は仮にも百年戦争の功労者、フランス最大の領主である。確かな証拠があがっても、彼を処罰することができるかは疑問だった。
 
ところが、ここでジルは軽率な行動に出る。1440年、聖霊降臨祭でのこと。ジルは六十余名の軍隊を率いて或る教会に押し入った。
 
領主権を巡って抗争していた諸侯の弟にあたる聖職者を捕らえるためだったのだが、ミサを乱すことは当時は極めて重罪だった。この事件が大司教の逆鱗に触れ、ジルを陥れるためのありとあらゆる手段が講じられた。
 
9月13日、大司教はシャルル7世から許可を得て「異端、幼児殺戮、悪魔との契約、自然の掟に対する違反」の罪でジルを告発した。どれ一つをとっても死罪を免れない大罪だった。
 
裁判はナント城で行われた。1ケ月にも及んだこの裁判は、サド侯爵ならば大歓びすること請け合いの大残酷博覧会だった。腹心の1人、エティエンヌ・コリエはこのように証言している。
 
「自然の摂理に反して少年たちに自堕落な行為を及ぶために、ド・レ侯はまず自分の性器を握り、勃起するまで擦りました。そして、淫らな興奮に身を任せて少年の体内で摩擦し、最後にはその腹上で射精するのでした。
 
絶頂に達した後、侯は我々に命じ、少年の首を生きたまま切断させました。時にはじわじわとうなじから切ることもありました。侯は大変に興奮し、血を流しながら死んで行く少年を眺めながら自慰に耽ることもありました。
 
少年たちに悲鳴をあげさせないために、侯はまず首に縄をかけて、床から3メートルほどの高さに吊るしました。
 
そして、死ぬ直前に下ろしてやって、声を出すなと云うのでした。それから自分の性器を擦り、少年の腹に射精するのです。果てると同時に、少年の喉を掻き切り、首を切断します。時には首を並べて『どの頭が一番綺麗かね?』と訊ねることもありました」
 
なんか余りに凄いので、文献を写しながら途方に暮れている私。鬼畜のような私でさえそうなのだから、当時の人々の衝撃たるや如何許り。
 
そのあまりの惨さに大司教までが耳を塞いで、聞こえないように「アー」とか云いながら後ろを向いてしまった、と伝えられている(これはちょっと嘘)。ひとたびは悪魔に魂を売ったジル・ド・レも、裁判においては全面的に改悛の情を露にした。
 
1440年10月26日、ジルは絞首の上、屍体を焼かれる予定であったが(当時は屍体を焼却することは死者に対する冒涜を意味していた)、改悛の情が斟酌されたのだろう。焼却だけは免れた。
 
ジルの屍体の周りには人集りが出来、誰もがこの偉大なる元帥の魂の救済を願って涙したと伝えられている。
 
----------------(転載ここまで)
 
この記事は「ジル・ド・レ」の生涯をかなりうまくまとめています。ただ、詳細を少し端折りすぎて、彼がどのような経緯で「悪魔崇拝」に没頭していったかが分かりにくいですね。
 
その辺の詳細をお知りになりたい方は、以下のリンク記事を参考になさって下さい。
 
不思議館~中世の血塗られた史実~ジル・ド・レの大虐殺
 
もっとも、私はこの上のリンク記事の内容はほとんどデタラメではないかと思っています。
 
このリンク記事によると、「ジル・ド・レ」にはもともと少年に対する異常な性的嗜好があり、それが高じて少年を殺害することに性的な興奮を抱くようになり、さらには「錬金術」にはまった挙げ句、「悪魔崇拝」に傾倒するようになったということになっていますが、私からすると、この話にはやや納得しかねる部分があります。
 
恐らくこの「ジル・ド・レ」の一家は、最初から「悪魔崇拝」一家だったのではないでしょうか。そう考えた方が筋が通ります。
 
何しろ、彼の祖父はバリバリの同性愛者だったとのことですし、その影響で彼まで同性愛者となったということですが、そんな異常性欲を親の影響で持つようになった、というのは少し考えにくいことだからです。
 
しかも、贅沢三昧の日々を繰り返した挙げ句、少年愛に没頭し、かつ少年を殺すことに性的な嗜好を感じはじめた、というのも余りに「物語的」であり、現実味が感じられません。
 
しかも、彼のような人間の屑とも言える男が、なぜかフランスの独立のために戦う少女ジャンヌ・ダルクの姿に感動し、彼女と共に戦う気になったというわけですから、私には全く信憑性が感じられませんでした。
 
結局のところ、ジャンヌ・ダルクの背後には「ローマ教皇」が存在していて、ジル・ド・レもまた「バチカン」のような巨大な黒幕に背中を突かれ、ジャンヌ・ダルクとともに民衆の戦意を煽る「プロパガンダ装置」として利用された、ということではないでしょうか。(百年戦争は、ある意味、ローマ教皇の威信をかけた戦いだったとも言えますから。)
 
現在でも、悪魔崇拝者たちは若い女の子たちをスーパースターに仕立て上げ、民衆の洗脳装置として使っています。なので、ジャンヌ・ダルクが悪魔崇拝者たちの操り人形として利用されていた可能性は大きいのではないでしょうか。
 
(さらに言うと、ジャンヌ・ダルクが本当に女だったのかどうかも疑わしいと私は思っています。彼女は男装をした女ではなく、女を装った男だったのではないでしょうか。女だと言った方が、民衆たちを感動させやすく、戦意を鼓舞しやすいからです。良い意味でも悪い意味でも、男なら「あんな若い女の子でも国のために戦っているのだから、おれも負けてはいられない」となりますからね。)
 
で、「ジル・ド・レ」が多くの武勲を残したという話も、もしかしたら民衆たちの戦意を昂揚させるためのデマだったのかも知れません。
 
彼のような放蕩三昧のダメ人間でも、頑張って戦えば英雄になれる、と言われると、人によっては激しく野心を駆り立てられるでしょうからね。これまた「あんな奴には負けてられない」となるでしょうから。
 
しかしながら、この「ジル・ド・レ」が終戦後、少年たちを次々と殺して「悪魔崇拝」の儀式を行っていることが周囲の人々にバレてしまった。しかも、その噂が世間に大きく広まってしまった。
 
バチカンはこの事実に慌てた。このままではバチカンの祭司たちまでもが「ジル・ド・レ」とともに数多くの少年を殺し、「悪魔崇拝」を行ってきたことが知られてしまう……。
 
そこで、バチカンの祭司たちは「ジル・ド・レ」が個人的に「悪魔崇拝」を行っていた、という話をでっち上げることにした。彼がもともと異常な性欲の持ち主で、個人的に道を踏み外して「悪魔崇拝」に没頭するようになった、という話にすり替えてしまったわけです。
 
しかも、彼がいくら「悪魔崇拝」をしても、実際に悪魔を呼び寄せることはできなかったと言って、まるで「悪魔崇拝なんてインチキ」と触れ回るオマケ付きです。
 
その作り話と思われる一部始終がこちらです。
 
----------------(以下、こちらから転載)
 
もともと、彼は、錬金術にたいそう興味を持つ人間であった。城の一室には、錬金術の工房がつくられていたほどだった。
 
工房内は、蒸留するための器具類、複雑に渦を巻いたガラス管、怪し気な恰好をした器の類が所狭しと置かれていた。
 
最初、知的な好奇心から没頭していたものの、洪水のように金を使っていったがために、自分の財産が次第に先細りしてくると、彼は、この錬金術によって黄金をつくり出すことに躍起になり始めた。
 
こうした打算的な欲望は、本来の錬金術の精神から言えば、邪道であったかもしれないが、窮地に立った男爵は、ますます、その行為に没頭しのめり込んでいくのである。
 
この世は、7つの元素によって成り立つものと考えられていた。従って、組み合わせにより、どんな物質でもつくることが出来ると思われていた。
 
彼は、この部屋に、一人で朝から晩まで籠り、アラビアの文献を読みふけり、ひたすら実験をくりかえすのであった。
 
彼のつくり出そうとしていたものは「賢者の石」と呼ばれるもので、これは、屑鉄などの卑金属を光輝く黄金に変える力を持つ物質と言われるものであった。
 
材料となるものは、硫黄や水銀で、これらを燃焼、昇華、融合と化学変化を起こさせていくうちに、やがては、まばゆいばかりの黄金に変化していくのである。賢者の石は、その過程で、どうしても必要な物質とされていた。
 
男爵は、賢者の石をつくり出すために、悪魔を呼び出して、その力を借りることで賢者の石の精製方法を聞き出し、莫大な財宝をつくり出すことを考えた。
 
そのために、降魔術から占星術、呪術までまさにありとあらゆる神秘学の実験を繰り返したが、悪魔は出現せず、実験は次々と失敗して、後には疲労と挫折感だけが残された。
 
わけのわからない実験を繰り返し、破局の恐怖に焦っていた男爵の前に、ある日、魅力的で端正な青年が現れた。
 
男爵は、彼にたちまち魅了されてしまい、腑抜けになるほどのぼせ上がってしまった。
 
フランソワ・プレラーティと呼ばれた美貌の若者は、彼自身によれば、過去に何度も悪魔を呼び出したことがあり、降魔術と錬金術を完全に修得した天才だということであった。男爵は、この男と一緒なら実験は成功するような気がした。
 
二人は、ただちに実験にかかったが、プレラーティが言うには、悪魔を呼び出す際の触媒として、血が必要であるということであった。
 
それも、死んだ者の血では役に立たない。生き血が必要というのである。
 
生き血は、若い女のものでよかったが、子供の血であればなおさらベターということであった。悪魔は子供の生き血を好んでいたというのである。
 
その他、護符のメダルや指輪、死体の脂でつくったローソク、羊皮紙、ハシバミの小枝などのアイテム類と、少年の体の一部も必要ということであった。
 
このような材料は、日頃、少年を殺し続けている男爵にとってみればお手のものだった。
 
かくして、この後、自らの情欲のためだけに犯行を重ねていた殺人に、悪魔を呼び出すためという大義名分も加わることとなった。
 
それから、まもなくして、男爵は、少年の切断された手首と両目、取り出されたばかりの心臓、生き血を携えて彼の部屋にやって来た。
 
プレラーティは、この供え物の出処には興味を示すことなく、降魔術を始めたが、悪魔は出現しなかった。プレラーティに言わせると、男爵は、地獄の住民たちに嫌われているということであった。
 
自分一人の時なら、たちどころに悪魔は現れるはずだとも答えた。プレラ-ティは、美貌で魅力的で勤勉な男だったが、このように抜け目のないいかさま師でもあったのである。
 
男爵とプレラーティの降魔術の実験は、その後も続けられ、その都度、切り刻まれた少年の体の一部や生き血が捧げられ、悪魔が出ないとわかると、意味なく地中に埋められることが何回と繰り返された。
 
しかし、何事にも終わりは来るものである。邪悪非道の限りをつくした彼にも、逮捕の手が及ぼうとしていた。
 
こうした何年にもわたる殺人、血の儀式、悪魔崇拝が、誰の耳にも入らず、男爵の居城から漏れないはずはなかった。人々の噂は、口から口へと伝わって行き、やがてローマ教会にも知られることになったのだ。
 
ローマ教会は軍隊を送り、1440年9月15日の朝、ナント司教の名のもとに男爵は逮捕されてしまった。そして、彼は降魔術、殺人、性犯罪などの三つの罪で宗教裁判を受けるはめになったのである。
 
法廷は、何度となく開かれ、かのプレラーティも証人として連れて来られて訊問を受けた。
 
プレラーティが、男爵との犯罪との関わりを否定して、自己保全に夢中になっている時ですら、男爵は、この美貌の青年にうつつを抜かし見とれている様子で、彼が立ち去る寸前になっても、プレラーティを抱きしめてその別れを涙ながらに惜しむ有り様であった。
 
やがて、判決を言い渡す日が訪れた。まず、裁判が厳正であることを主張する前文が読まれた後、ナント司教が厳かに立ち上がって判決文を読み上げた。
 
子供たちの殺戮、死体の凌辱と解剖、悪魔との交信、背教行為などの罪状が淡々と朗読された。そして、その結果として男爵には破門の宣告が下され、異端者に対する罰則、つまり絞首刑の上、火刑に処せられることが決定したのであった。
 
一瞬、法廷は沈黙した。男爵は、この時最後の願いを申し出た。それは、牢獄から絞首台までの距離をせめて威厳に満ちた行列に仕立てて欲しいという要求であった。死に際しての彼の最後の虚栄心とでも言うのだろうか。しかし、この願いは叶えられた。
 
1440年10月26日の水曜日の朝、その日は雲一つなく見事な秋晴れだった。群集の待ち受けている処刑場に、男爵はすがすがしい表情で向かって行った。ジャンヌ・ダルクが火刑に処せられて9年と半年後のことであった。
 
彼は、その呪われた36年の生涯で、少なくとも1千人以上の子供を殺し、その遺体を凌辱したと言われている・・・
 
----------------(転載ここまで)
 
多分、プレラーティという男が「ジル・ド・レ」に悪魔崇拝を教えたということすら嘘でしょう。彼は完全に濡れ衣を着せられてしまったわけです。
 
で、「ジル・ド・レ」もバチカンの秘密を漏らすことのないように脅され、早々と処刑されることになった……。
 
「牢獄から絞首台までの距離をせめて威厳に満ちた行列に仕立てて欲しい」というジル・ド・レの要求にバチカンが応えたのも、いわゆる「アメとムチ」の「アメ」の部分だったのではないでしょうか。
 
もっとも、バチカンが悪魔崇拝の組織であると知らなければ、多くの人たちがこの記事の内容をそのまま信じてしまうかも知れませんが、バチカンが悪魔崇拝組織であると分かっている以上、私はこの内容にはやはりどうしても眉に唾を付けたくなりますね。
 
繰り返すようですが、個人的に「少年愛」と「少年の殺害」に没頭し、さらには「錬金術」にはまり、そこに悪魔崇拝に詳しい男にたまたま出会った……というのは余りに話が出来すぎていますから。
 
現実世界において、こんなに偶然に偶然が重なるわけがありません。可能性はゼロではありませんが、限りなくゼロに近いことです。
 
いずれにせよ、フランスやイギリスなどでは、この「ジル・ド・レ」という男のせいで、「悪魔崇拝」というものが大々的に民衆の間に知れ渡ることになってしまいました。
 
で、今でも西洋の多くの人たちが、一部の金持ち(権力者)が、自らの道楽や快楽のために「ジル・ド・レ」のような悪業を行っているのではないかと疑いの目を向けているわけです。
 
さぞかしバチカンは、「ジル・ド・レ」を自らのプロパガンダ装置として使ったことを激しく後悔していることでしょう。
 
で、その疑いが確固たるものだったということが、つい最近、ローマ法王とエリザベス女王の逮捕によって明らかになってしまったわけですね。
 
しかも、彼らが殺した子供の数「五万」。ジル・ド・レの比ではありません。
 
〈TALK RADIO〉悪魔崇拝はあるのか? エリザベス女王とローマ法王による5万人の幼児虐殺事件について。
 
「しかし、何事にも終わりは来るものである。邪悪非道の限りをつくした彼にも、逮捕の手が及ぼうとしていた。こうした何年にもわたる殺人、血の儀式、悪魔崇拝が、誰の耳にも入らず、男爵の居城から漏れないはずはなかった。」
 
という上のジル・ド・レについての記事の言葉は、現代の悪魔崇拝者たちにもそのまま当てはまると言えるでしょう。
 
この世のすべての悪魔崇拝者たちの悪行が、一日も早く白日の下に晒されることを祈ります。
 

3 Comments
  • 藍染蘭丸
    Posted at 00:41h, 21 6月

    次々と驚くべき情報をありがとうございます。
    ジャンヌ・ダルクと一緒に戦った人物が、悪魔崇拝で処刑されていたとは。
    しかも、殺した少年の数が1000人。
    今回、ご紹介してくださった快楽殺人のサイトにも、西洋の血生臭い出来事が沢山書かれてますが、意外と日本では知られていないものが多いことに気付かされました。
    ある意味、一般人が知る必要のない情報なので世間に出回っていないだけなのかも知れませんが、こういった悪質な事件の背後には何か巨大な組織が絡んでいるとしか思えません。
    今回のジル・ド・レも、ジャンヌ・ダルクと関係があったわけですから、彼が巨大な勢力の一つのコマだった可能性は十分にあると思います。
    第一、一人で千人もの少年を本当に殺したとは思えません。個人的に悪魔崇拝をやる、ということはあり得ないと思います。
    あったとしても遊び半分でやるだけで、実際に人を殺したりはしないのではないでしょうか。
    もちろん、これはあくまで私の推測に過ぎませんが。
    更新ありがとうございます。

  • Cat
    Posted at 01:43h, 21 6月

    ジル・ド・レについて、なるほどです。一般的なストーリーは知ってて、事実かどうかは考えたことなかったです。
    60〜70年代の特に政治・宗教色の強い欧州映画を色々みています。近い傾向で思い浮かんだのが、イタリアのピエル・パオロ・パゾリーニ監督。マリアカラスとも恋の噂になったことがあり、かつ少年愛者といわれています。本人は、支配的な母親に性欲を感じたことがある、という発言等をしており、母親へ近親相姦的な愛情を持っていたともいわれています。
    反ファシズムの意図を込めた遺作「ソドムの市」(’75)を製作後、監督は殺害されました。パゾリーニから性的暴行を受けた少年による犯行と断定されていましたが、ネオ・ファシストの暗殺ともいわれています。
    ちなみにこの映画はみることをお勧めしません。トラウマになるかもしれません。二度とみたくない映画です w
    https://ja.wikipedia.org/wiki/ソドムの市

  • rapt
    Posted at 03:57h, 21 6月

    >catさん。
    ピエル・パオロ・パゾリーニは「ソドムの市」で悪魔崇拝の様子を克明に描いたために暗殺されたと私は思っています。
    要するに、スタンリー・キューブリックと同じですね。
    しかも、「ソドムの市」の方が「アイズ・ワイド・シャット」よりもっと悪質な悪魔崇拝を描きました。
    多分、高位の人たちが行う悪魔崇拝なんでしょう。
    私はあの映画を二十代のときに興味本位で観て、一週間ぐらい精神状態がおかしくなってしまいました(笑)
    あれは絶対に人類が見てはいけない映画ですね。下手すると、気が狂います。
    余りにも下品で残酷な映画だからです。
    もちろん、私は最後まで観ることはできず、最初の方だけ観てやめてしまいました。
    しかし、悪魔崇拝者たちはあんな地獄のような行為を現実に行っているということです。
    本当に信じられません。
    あんな映画を作ることすらも信じられませんが……。

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