RAPT | キリスト教最大のタブー。イエス・キリストの「肉体」が生き返ったという大嘘。
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キリスト教最大のタブー。イエス・キリストの「肉体」が生き返ったという大嘘。

キリスト教最大のタブー。イエス・キリストの「肉体」が生き返ったという大嘘。

Ночь_на_Голгофе

 
ここ最近、キリスト教に関する記事をいくつも書いてきましたので、この際ですから、今回はキリスト教最大のタブーに迫ってみたいと思います。
 
私のブログにはキリスト教のことが沢山書かれてありますので、もしかしたら多くのクリスチャンの方がこのブログを読みに来て下さっているかも知りません。
 
そして、そのクリスチャンのほとんど(というかほぼ全員)が、聖書に書かれてあるイエス・キリストの復活をそのまま信じているのではないかと思います。
 
つまり、イエスが死んだ後、三日後に生き返ったと信じているわけです。
 
さらにはそのイエスが、四十日後に天に昇っていったという話まで信じているのではないでしょうか。それを信じなければ、クリスチャンではないと言われてしまいますからね。
 
しかし、はっきりと言います。
 
死んだ肉体がどうして再び生き返ることができるでしょうか。
 
特にイエス・キリストは十字架に磔にされて衰弱死してしまったのです。
 
手のひらと足首とに大きな釘を打たれて十字架に磔にされましたので、当然、大量の出血があったことでしょう。ですから、出血多量で死んだとしてもおかしくはありません。
 
十字架刑というのはそのような残酷な刑なのです。
 
しかも、イエス・キリストは十字架に磔にされるまで、さんざん激しく鞭を打たれました。
 
その鞭には鉄製のカギのようなものが沢山ついていましたので、鞭打たれるたびに肉がむしり取られ、かつ大量の血が飛び散りました。
 
しかも、イエスの頭には茨で作った冠まで被せられましたので、頭からも大量の出血があったはずです。
 
詳しくはメル・ギブソン監督の「パッション」という映画をご覧になってみてください。
 
パッション (2004年の映画) – Wikipedia
 
この映画は、イエス・キリストが鞭打たれて十字架刑によって死ぬまでの過程をかなり具体的に映像化したもので、日本では余りヒットしませんでした(というか、相手にもされませんでした)が、アメリカなどのキリスト教国では空前の大ヒットを飛ばしました。
 
その映画の一部映像が以下になります。
 


 
このようにイエス・キリストは普通ではない悲惨な死に方をしました。
 
にもかかわらず、イエス・キリストの「肉体」がどうして生き返ることがあるでしょうか。
 
いえ、仮に生き返ったとしても、こんなボロボロの「肉体」がまともに機能を回復したりするでしょうか。
 
普通に考えれば、絶対にそんなことはあり得ません。
 
にもかかわらず、クリスチャンの多くが、イエスの「肉体」が三日後に生き返ったと信じています。
 
まあ、仕方がありません。確かに「聖書」にはイエス・キリストが死んだ後、イエスが弟子たちの前に再び現れたとはっきりと書かれてありますからね。
 
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週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。
 
ところが、石が墓からころがしてあるので、 中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。
 
そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。
 
女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。
 
そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。
 
すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。
 
そこで女たちはその言葉を思い出し、 墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。
 
この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
 
ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。
 
ペテロは立って墓へ走って行き、かがんで中を見ると、亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰って行った。
 
(ルカによる福音書24章1〜12節)
 
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しかも、イエスが生き返った後、四十日後にイエスが昇天したとまで聖書には書かれてあります。
 
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こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。
 
イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて 言った、
 
「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。
 
(使徒行伝1章9〜11節)
 
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しかし、果たして人間の「肉体」が空高くへと飛んでいくことができるでしょうか。
 
絶対にできませんよね。
 
では、「聖書」には嘘が書かれてあるのでしょうか。
 
まあ、そう思う人もいるでしょう。
 
しかし、聖書をすべてきちんと読んだ人は、聖書に書かれてあることが全て嘘だとは到底思えないはずです。
 
では、イエスは本当に生き返って、天に昇っていったのでしょうか。
 
この際ですので、はっきりと言いましょう。
 
イエスが死んでから三日後に蘇り、さらに四十日後に昇天したということは、つまりイエスの「肉体」が復活したのではなく、イエスの「霊体」が復活したということではないでしょうか。
 
そう考えると、全てがすんなりと理解でき、納得できるのではありませんか。(もっとも、この世のクリスチャンはこんな話をする私のことを「異端」と呼ぶでしょうが。)
 
しかし、この世のクリスチャンたちは、人間に「霊」と「肉」があることを知らないので、このイエスの復活を無理やり「肉体」の復活だと思い込み、信じ込んでいるわけです。
 
今まで何度も言ってきましたが、聖書にはっきりとこう書かれてあります。
 
「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。」(テサロニケ人への第一の手紙5章23〜24節)
 
このように聖書には、人間には「肉」と「心」と「霊」があるとはっきり書かれてあります。
 
なので、もしクリスチャンたち全員がこの聖書の言葉をちゃんと理解して、人間に「霊」と「肉」があると分かっていれば、イエス・キリストの復活を「肉体」の復活とは考えず、「霊体」の復活だと考えていたのではないでしょうか。
 
そもそも聖書には、イエスの復活が「霊体」の復活であることを仄めかすような記述もあります。
 
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八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。
 
戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
 
(ヨハネによる福音書20章26節)
 
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このようにイエスはドアから入らず、いきなり部屋の中に現れたのです。これは明らかにイエスの「肉体」ではなく「霊体」が現れたということではありませんか。
 
とはいえ、イエスの「霊体」は「肉体」と同じぐらいはっきりと見えたのでしょう。少なくとも、聖書の記述を見ると、どの弟子たちもイエスの「肉体」が蘇ったと勘違いしているかのように見受けられます。
 
そして、そう勘違いしたまま「聖書」を記述したような箇所も見受けられます。例えば以下のように……。
 
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そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。
 
わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。
 
こう言って、手と足とをお見せになった。
 
彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。
 
彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、 イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。
 
(ルカによる福音書24章38〜43節)
 
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ここまで書かれると、確かにイエスの「肉体」が復活したのではないかと思ってしまいます。
 
しかし、よく考えてみてください。
 
「新約聖書」が書かれたのは今から二千年も前のことです。そして、二千年前には今のような科学的な知識はありませんでした。
 
なので、「聖書」を書いた人たちは、現代のような科学的な知識もないまま、ただ見たまま聞いたままを書いたわけです。
 
となると、我々現代人はきちんとそのことを念頭に置いた上で「聖書」を読み、解釈しなければなりません。
 
二千年前の人たちの考えていたことを、我々現代人がそのまま受け入れてはいけないのです。そうでなければ、それは「信仰」ではなく「妄想」になってしまいます。
 
ところが、例の如く、悪魔どもがこの教理をねじ曲げてしまいました。
 
イエスのこの復活は「肉体」の復活であり、イエスを信じた人も死んだ後はその「肉体」が復活するのだと、クリスチャンたちに無理やり信じ込ませてきたのです。
 
キリスト教国の多くが、「火葬」ではなく「土葬」を行うのも、実は死んだ人の「肉体」がいずれ復活すると信じているからです。
 
しかしながら、死んだ人がゾンビのように復活したという話を、今まで一度でも聞いたことがあるでしょうか。
 
一応、仮死状態になっていた人が棺桶の中で生き返ったという話なら聞いたことはありますが、死んでから何日も経った人が墓から生き返ったという話など一度も聞いたことがありません。
 
ですから、このイエスの復活は「肉体」の復活ではなく「霊体」の復活だと解釈するべきなのです。
 
実を言うと、私が「聖書の解説書」を読むなと言ったのも、ここに大きな理由があります。
 
「聖書の解説書」を書いた人たちの多くは、「聖書」が何千年も前に書かれた書物であることを考えず、「聖書」に書かれたことを全てそのまま鵜呑みにしています。
 
そのため、科学的知識と噛み合わないことを平気で信じて、それを我々にまで信じるように押しつけてくるのです。
 
科学的知識と「聖書」の記述とが噛み合わなければ、その場合は「聖書」の記述を正しいと考えろとまで言ったりもします。
 
しかし、そんな無茶な話をするからこそ、多くの人が「聖書」を敬遠してしまうのです。
 
まさに悪魔の計らいとしか言いようがありません。
 
わざと誰にでも分かる嘘を混ぜることによって、誰もが聖書を信じないように仕向けてきたのでしょう。
 
このため、私のブログを読んで試しに「聖書」を読み、「聖書」を読んでも意味が分からないと思って、「聖書の解説書」を読んだ人の中には、もう既に「聖書」はインチキだと思って読むのをやめてしまった人もいるかも知れません。
 
「聖書」に書かれてあることの意味を理解することも重要ですが、まずは一通り「聖書」を読み、おおよその概要を掴んでみてください。
 
そうすると、仄かに浮かび上がってくる「悟り」みたいなものがあるはずです。
 
で、さらに「聖書」を読み続けることによって、その仄かな「悟り」がいずれはっきりとした「悟り」になっていきます。
 
それだけでも心に深い感動が湧いてきますが、そのような「悟り」をさらに幾つも積み重ねていくことで、自分の人生に何らかの答えを見出し、心に大きな希望や喜びが湧いてくるようになるのです。
 
それは他のどんな本を読んでも得られない幸福な体験です。
 
ぜひとも私は皆さんにそのような体験をしてほしいと思います。
 

7 Comments
  • アモリフェラ
    Posted at 23:03h, 19 4月

    こんばんは。そうだったのですか。私は十代のころ、やはりイエスは肉体的に生き返ったというふうに教わった記憶があります。「処女懐胎」とこの「復活」だけは絶対に疑ってはいけないと言われました。クリスチャンにとって、その二つはキモなんだろうと思います。まあ普通に考えても霊的に復活したという考え方が自然ですよね。…本当にこの一年ほどで、いろいろと価値感が変わりました。チェイニーが「911は自作自演だった」と白状したとかで、今日もネットを見て驚きました。裏社会はひとつに繋がっている、戦争は八百長、日本では天皇がトップ。驚きの連続でした。まあ、聖書を読むにしても、誰かに言われたことを鵜呑みにしてはいけないという事ですね、自分の頭でよくよく考えろ!と…。いつも参考になります。upありがとうございます。

  • じげもん
    Posted at 23:29h, 19 4月

    こんばんは。今日も新しい気づきを与えてくださり、ありがとうございます。
    私もキリストの復活は肉体だとばかり思っていました。そのため、心のどこかで『そんな非科学的なことがおこるはずがない』と、聖書を読むのを避けていた気がします。悪魔の罠にひっかかっていました。
    自戒の念を込めて、これからはまず聖書を通読し、それから時間がある時に何度も読み込み、理解を深めていこうと思います。

  • カシスオレンジ
    Posted at 00:30h, 20 4月

    RAPTさん、皆さん、こんばんは。
    いつも新たな発見をいただき、有難うございます。
    私は下記の記事を見て、聖書を読みはじめました。
    http://rapt-neo.com/?p=16236
    素直に「聖書そのもの」を読んで本当によかったと思いました。
    また、私はメル・ギブソンが好きで「パッション」も当時DVDで観ました。
    そして、聖書を知らなかった私は、約2000年前のキリスト教の映画なんだろうと思い、
    随分ひどい仕打ちをして可哀そうだという程度の感想しか持っていませんでした。全くの他人事でした。
    しかし、聖書を薄くとも読んだ今では全く異なることに気づきました。
    上の動画を見ただけで、胸に熱いものがこみ上げ、涙が止まりませんでした。
    聖書を読み、私はつくづく罪人であると思い知らされました。
    そして聖書の以下の内容を思い出しました。
    ----------------
    「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」
    ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。
    そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
    わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
    そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
    (ペトロの手紙一2章22〜24節)
    ----------------
    とても他人事ではないことだったと思いました。長文、大変失礼いたしました。

  • k
    Posted at 08:12h, 20 4月

    イエス・キリストという人はいません。イエスという人は実在したようですが、それは太郎さん次郎さんと同じで当時のガリラヤ地方には多い名前だったのでナザレのイエスとかヨセフのイエスとか呼ばれてたんじゃないでしょーか?キリストというのは称号で、聖書編纂のための、あるいは悪意のある称号をイエスという個人名につなげただけのものだと認識しています。その辺に詳しいのが田川建三さんのようですが、ラプトさんはご存知でしたでしょーか?。解説書と言えば解説書になるかもしれませんが、「イエスという男」という題名の本です。

  • rapt
    Posted at 11:27h, 20 4月

    kさんのようにくだらないことを言う人がいるから「解説書」など読むなと言っているのです。
    kさんも聖書をちゃんと読んでいたらこんなことは言わなかったでしょう。
    あるいは、読んでいてもこんな低レベルのコメントを書くのでしょうか。
    だとしたら、本当に「解説書」とは悪魔の書ですね。
    まさに「解説書」を読んではいけないというお手本のようなコメントでした。
    とにかく、聖書のことを記事にすると、必ず一人はこういったアンチ・キリスト発言をする人が現れますが、それだけ聖書に触れてほしくない人がこの世には多いということでしょう。
    普通の日本人は、聖書に対してそこまで悪くも思っていませんからね。
    誰がこういうコメントを書かせているか、ですね。
    このブログの読者の方はもう既にその答えはお分かりだと思います。

  • ゆかい
    Posted at 12:27h, 20 4月

    悪魔どもの影響は信じられないくらい自分たちの身の回りにまで浸透しており、日本人のほとんどの人はそれが当たり前と思って生きています。ですのでKさんのような自分がすでに悪魔の影響を受けていると認識できていないようなコメントをしてくる人がいるのですね。悪魔は無知につけ込んできます。先に間違った情報を吹き込み、正しい情報を受け付けなくするわけですね。

    raptさんが、「聖書には悪魔に騙されないための極意である肉体と霊のことや悪魔についての記載があるので、ろくでもない解説書(おそらく情報操作が入っているであろう)に騙されず、自分の目で聖書を読んでみたらいかがでしょうか?」と言っているのに、解説書にはこう書いてあるのでraptさんの言っている事は違っていますよというようなばかばかしいコメントをしてくる思考回路がよくわかりません。

    何度も何度も聖書そのものを読み込んだと言っている人に対して、解説書を読んだだけでそっちが正しいと主張できるのは理論的な思考ができなくなっている証拠だと思います。せめてraptさんに聖書の内容で異議を唱えるのであれば自分自身で聖書を読む必要がある事くらい分かるように、ちゃんとした思考をできるようにして欲しいですね。

  • かに
    Posted at 19:58h, 20 4月

    聖書は読んでないが解説書は読んでる不思議な人もいるんですね。
    ミシュナーやタルムードもラビによる聖書の解説書でしたね。ユダヤ教がキリストを認めず迫害したのも解説書による誘導が少なからずあったのではないでしょうか。これらの解説書は異教徒に内容を見せられないような本のようです(例えば「ユダヤ人が異邦人を騙す事は差し支えない」などと聖書の言葉を曲解して書かれているそうです)。
    ほんと隠された教えのあるところ悪魔崇拝ありですね。
    聖書は口語訳で200万字近くあって読むのも大変ですが木端みたいな流行本は古本屋にでも売り払って聖書を読むことをお勧めしたいです。

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