RAPT | 一人一人が悪魔の誘惑に打ち勝つことが、この世界を変えることになります。先ずは自分のためにお祈りしてみてください。
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一人一人が悪魔の誘惑に打ち勝つことが、この世界を変えることになります。先ずは自分のためにお祈りしてみてください。

一人一人が悪魔の誘惑に打ち勝つことが、この世界を変えることになります。先ずは自分のためにお祈りしてみてください。

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この数日、「聖書」についてかなり具体的に解説してきましたが、悪魔からの攻撃もかなり激しくなっています。悪魔どもはとにかく「聖書」がこの世に広められることを嫌がりますからね。
 
この世のカラクリがある程度分かってきたので、今後はこの世をどう変えていけばいいのか具体的に考えていきたいと思います。
 
悪魔に打ち勝ち、自分の心身を守る方法。祈って聖霊を受けることが、悪魔を滅ぼす最大の鍵です。
 
もっとも、バチカンの傘下にある教会が「聖書」を広めていく分には、悪魔にとっては何の問題もありません。
 
彼らは最初だけ「聖書」の教えをきちんと説いて、「聖書」の言葉を信じさせますが、信者たちがいざ「聖書」の言葉に心酔しきったところで、ローマ法王やらインチキ牧師やらを神の代理人だと思わせ、「聖書」の言葉よりも彼らの言葉に耳を傾けるようにさせます。
 
そうすると、その人はもう二度と神様に近付くことができず、悪魔の餌食となるのみ。救われたはずが、むしろ人生を台無しにしてしまいます。
 
で、この世の中にはそういう苦い経験をするクリスチャンが多いので、今やどの教会も信者の数がどんどん減っています。
 
また、悪魔どもは自分たちの傘下にないまともな教会が大きくなると、必ず「異端」だと言って迫害を始めます。
 
イエス・キリストもまさにそのような運命を辿りました。悪魔どもはさんざんイエスをバッシングして、最終的に殺してしまいました。
 
で、もし迫害して駄目なら、そのときには悪の道へと誘惑します。聖書の中でも、悪魔はのっけから「アダム」と「エバ」を悪の道へと誘惑し、堕落させてしまいました。
 
このアダムとエバのことを、多くのクリスチャンたちが人類の祖先であるかのように思い込んでいますが、まあ、それは先ずあり得ませんね。
 
一般にアダムとエバは6000年前頃の人物と言われていますが、6000年前にはもう既に人類はたくさんこの地球上にいましたからね。
 
なので、ダムとエバは、イエス・キリストと同じように宗教的に選ばれた人間だと考えた方がいいと思います。つまり、当時の救世主ですね。
 
実際、聖書の中にはイエス・キリストのことを「第二のアダム」であると書かれてありますので、「第一のアダム」である「アダム」も当時の救世主だったと言えるでしょう。
 
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聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。 最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。 第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。 (コリント人への第一の手紙15章45〜47節)
 
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ところが、救世主となるべき「第一のアダム」が、あろうことか悪魔に騙されてしまった。そのシーンが以下になります。
 
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さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
 
女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
 
へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
 
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
 
すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
 
彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
 
主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
 
彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。
 
神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。
 
人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。
 
そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。
 
主なる神はへびに言われた、
 
「おまえは、この事を、したので、
 
すべての家畜、野のすべての獣のうち、
 
最ものろわれる。
 
おまえは腹で、這いあるき、
 
一生、ちりを食べるであろう。
 
わたしは恨みをおく、
 
おまえと女とのあいだに、
 
おまえのすえと女のすえとの間に。
 
彼はおまえのかしらを砕き、
 
おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
 
(創世記3章1~15節)
 
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こうして「アダム」は救世主となる道を閉ざされ、この世を救うという志も頓挫してしまったわけです。
 
ちなみに、ここに登場する「へび」はもちろん本物の「へび」ではなく、「悪魔」のことです。
 
といっても、「悪魔」が人間であるエバと直接こうして対話できるわけがないので、恐らくこの「悪魔」も悪魔崇拝者なのでしょう。
 
それと同じく、ここに登場する「園の中央にある木の実」もまた何かの喩えだと思います。
 
もっとも、クリスチャンの多くはこの「木の実」のことを本当に「木の実」だと思っていますが、「木の実」を食べたからといって神様がそんなに怒るわけがありませんよね。
 
それはともかく、ここにはアダムが騙される前に、先ず最初にエバが騙されたと書かれてあります。で、そのエバが悪魔から聞いた話をそのままアダムに伝えて、アダムまで騙してしまいました。
 
もちろん、エバにはアダムを騙そうという意図はなかったと思います。しかし、悪魔から聞いた話をそのままアダムに伝えて、アダムにその話を信じ込ませてしまったわけですから、結果的には騙したことと同じです。
 
このように悪魔というのは、直接、アダムを騙すことが無理だと分かると、アダムに近い人を先に騙して、その人を通して騙します。
 
例えば、あなたの傍にセールスマンがやってきて、これこれこの株が買い時ですよと話してきても、あなたはその話をすぐには信用しないでしょうし、もしかしたらその話に耳を傾けないかも知れません。
 
ところが、自分の身近にいる人(例えば妻など)が同じような話をしてくると、ひとまずはその話に耳を傾けますよね。
 
「この会社の株がこれから上がるそうよ。だから、あなた、この株を買いましょうよ。これからは子供の学費もたくさんかかるし、あなたのボーナスも上がる見込みはないんでしょう」
 
などといって、自分の妻から泣いてすがられると、夫はついつい心が揺すぶられて、妻のためにその株を買ってあげなくてはいけない気になります。
 
で、アダムはついつい心揺さぶられてエバの話を受け入れ、神様からやってはいけないと言われていたことをやってしまったわけです。
 
で、取り返しのつかないことになってしまった。
 
彼らのこの過ちによって、人類はそれから4000年ほどの間(つまり旧約聖書の時代)、苦痛の道を歩かなければならなくなってしまいました。
 
つまり人類は、神様から堕落したと見なされ、神様の前に進み出るためには、わざわざ動物やら何やら色んな捧げ物をしなければならなくなり、様々な厳しい戒律に従わなければならなくなってしまいました。
 
囚人が牢獄に入れられて、厳しい規則に従わざるを得なくなったのと同じようなことです。
 
で、4000年という長い歳月を経た後、イエス・キリストが現れて人類を救ったため、人間はようやく神様からまともな人間と見なされるようになり、神様の前に進み出る際にも、動物などを捧げる必要がなくなりました。
 
しかし、悪魔どもはこのイエス・キリストが憎くて憎くてたまらなかった。なので、彼をさんざん迫害した上、最終的には死刑にしてしまいました。
 
イエス・キリストのみならず、イエス・キリストの弟子たちもほとんど全員、牢獄に閉じ込めたり殺したりしてしまいました。
 
しかしながら、その弟子たちをどんなに殺しても、キリスト教が物凄いスピードで世界中に広まっていったので、悪魔どもはやむなくバチカンを立ち上げ、世界中のキリスト教徒たちを自分たちの傘下に置くことにしたわけです。
 
で、マルチン・ルターがこれに対抗してプロテスタントを立ち上げたわけですが、今やそのプロテスタントの教会もほとんどが悪魔どもに乗っ取られてしまいました。
 
そのため、カトリックもプロテスタントもその教理の内容がスカスカで、どんな牧師の話を聞いても面白くも何ともない。
 
なので私は、牧師たちの書いた聖書の解説書など読むのはやめた方がいいと言っているわけです。そんなものを読んでも、余計に聖書のことが分からなくなるだけですから。
 
もちろん、最初のうちは聖書を理解するのに少しは役立ちます(あるいは、役に立ったような気がします)が、その解説書に書かれてあることは矛盾だらけなので、後になって逆に頭の中がこんがらがってきます。
 
また、ネット上にあるキリスト教の解説などを見てみると、キリスト教がミトラ教や古代エジプトの宗教と似ているなどと言って、まるでキリスト教が悪魔教であるかのように解説したりもしています。
 
ミトラ教もエジプトの宗教も、その教典は一つも見付かっていませんが、何を根拠にキリスト教と似ていると言っているんでしょうね。
 
ミトラ教も古代エジプトの宗教もどちらも悪魔教なので、どうせ「密教」や「チベット仏教」みたいに性的な儀式とか、ドクロを使う儀式とか行うのでしょうが、聖書にはそんな儀式をしろとは一言も書かれてはいませんけどね。
 
〈閲覧注意〉チベットは悪魔崇拝の聖地です。
 
〈閲覧注意〉日本の密教もまた悪魔崇拝そのものです。
 
しかも、ミトラ教の信者たちはクリスチャンの振りを装っていたわけですし、古代エジプト宗教の信者たちもユダヤ教徒の振りを装っていたので、ミトラ教や古代エジプトの宗教の遺品が、聖書の記述と似ているのは当然のことなのです。
 
なのに、ミトラ教も古代エジプトの宗教もキリスト教もおなじ悪魔教だとか言って、我々が「聖書」を敬遠するように仕向けているわけですね。
 
実際に「聖書」を読めば分かりますが、「聖書」は悪魔教なんかではなく、むしろ悪魔教の対極にあるものと言っても過言ではありません。
 
我々がこういった悪魔の攪乱工作に騙されないようにするためには、先ず何よりも正しい知識、情報を知ることが重要ですが、それと同時に、アダムのように悪魔の誘惑に負けないようにすることもとても重要です。
 
何しろ、我々が少しでも何か悪いことをすると、悪魔どもは鬼の首を取ったかのように、我々を責め立て、ときにそれをネタに脅迫したりしてきますからね。
 
そうすると、例えその人がどんな大きな志を持っていたとしても、その道は完全に閉ざされてしまいます。
 
では、悪魔は一体どのような誘惑をしてくるのか。それについても聖書にははっきりとこう書かれています。
 
「すなわち、不品行、汚れ、好色、 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。」(ガラテア人への手紙5章19~21節)
 
悪魔どもは我々にこういった行いをさせて、我々の行くべき道を閉ざそうとします。
 
「不品行、汚れ、好色」を行えば、世間にバレれただけで恥さらしとなり、バッシングの対象になりますよね。
 
「偶像礼拝、まじない」を行えば、まさに悪魔に祈るのと同じようなものですから、悪魔に自分の魂を売ったも同然です。しかも、その祈りが叶えられることはありません。
 
いえ、仮に叶えられとしても、それは単なる偶然に過ぎません。しかし、その人はそれをありがたく思って、また偶像を拝みにいくでしょう。そうして、悪魔にさらに魂を売ることになるわけです。
 
「敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、 ねたみ」は、集団で何かをしようという場合、完全な障壁となりますよね。こういった感情が集団の中に満ち溢れると、それだけでその組織は混乱を招き、下手をすれば崩壊しますから。
 
「泥酔、宴楽」も、こんなことばかりやっていたら人間、何の進歩もありません。最悪の場合、アルコール中毒になって、人生を台無しにしてしまいます。
 
あと、ここには書かれていませんが、金銭、薬物などの誘惑もあります。
 
また、失意、絶望、落胆、不安、恐怖、といった感情に陥ると、仕事にも手が付けられなくなります。下手をすると、人生そのものを放棄してしまうことにもなりかねません。
 
なので、我々は常に自分の心をきちんと守って、悪魔の誘惑に陥らないようにしなければなりません。
 
その一方で、神様は我々人間に以下のようなことを行うよう勧めています。
 
「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」(ガラテア人への手紙5章22~23節)
 
これらを行っても悪魔は何も文句はいえないし、むしろ悪魔どもは戦々恐々とします。悪魔は人が善を行うことをとても嫌がるのです。
 
そのため、悪魔どもは我々がこのような善を行えないように妨害し、攻撃し、悪の道へと誘惑しようとするわけです。
 
しかし、昨日も言いましたように、我々がお祈りして「聖霊」を受けて生活するならば、こんな悪魔の誘惑や攻撃にすべて打ち勝つことができます。
 
もちろん、全戦全勝というわけにはいかないでしょうが、それでも全敗ということはあり得ないでしょう。
 
で、そうやって悪魔と戦って勝利する人がこの世からたくさん出てくるようになれば、いずれこの世の中は自然と良い方向に変わっていくはずです。
 
しかも、こういう人たちが一丸となって悪魔どもに立ち向かっていくならば、悪魔どもとてそうそう簡単にその人たちを倒すことはできません。
 
なので、「この世の中を変えたければ、先ずは自分から変わる」ことが何よりも重要なのです。
 
世界の平和のために祈る、ということも重要ですが、それよりも先ずは自分の心が悪に流されず、良い方向に変わるように祈ってみて下さい。
 
本当に世界を変えたいのなら、先ずはそこから始めてみてください。
 
そもそも、この世の中が例えどんなに変わったとしても、あなた自身が変わらなければ、そこにどんな幸せがあるというのでしょうか。
 
それに、全世界のために祈っても、その祈りが叶えられたかどうかは分かりにくいですが、自分のために祈るなら、その祈りが叶えられたかどうかもすぐに分かります。
 
そして、祈りが叶ったと分かれば、神様がこの世に存在することもはっきりと分かるようになり、さらに強い確信を持って祈れるようになります。
 
皆さんに祝福が満ちあふれますよう、私も皆さんのために祈りつづけます。
 

7 Comments
  • Posted at 01:10h, 14 4月

    お久しぶりです。お元気で何よりです。

    私は、おそれることが一番いけないと思います。
    生きている人間なら「死」でしょうか…
    また愛するものとの永遠の別れなど。
    最近ネガティブな方が多くてびっくりします。
    私のまわりだけでしょうか?

    心臓は一生命に一つ。
    魂も一生命にひとつ。
    生きていればいずれ死ぬんです。

    でも人は祈ることができます。
    祈りは一つではありません。
    希望もひとつではありません。
    見えないけれど
    無限に広がる可能性があります。

    …くさくなってしまいました。

    とにかく。

    若者よ!
    くよくよ考えずに
    ただただ前を向いて全力でゆけ!!
    勢いでネガティブを吹っ飛ばせ!!
    悪魔だって吹っ飛ばせ!!!

    と申したい。
    …私は自分の子供達が困難にぶち当たった時
    そのようにいって育てました。
    そして自分の病気も吹っ飛ばしました。

    いつもありがとうございます。
    これからも楽しみにしております。

  • きりぎりす
    Posted at 08:30h, 14 4月

    まさにMichealのMan In The Mirrorですね。

  • アモリフェラ
    Posted at 08:35h, 14 4月

    おはようございます。党派心、分裂、分派。人々をわざわざ仲たがいさせて戦争を引き起こし金銭を奪う。悪魔のやり口そのものですね。私は、ずっと聖書は伝説や例え話だと思って来ましたし、そう教わっても来ました。でもほとんど、真相といっても良いくらいの真実のお話だと思います。戦争のない平和な世界、悪魔が喜ばない社会、そのような未来を切望します。upありがとうございます。

  • ひろ
    Posted at 11:16h, 14 4月

    悪魔教の生け贄儀式とおぼしき猟奇的な未解決事件 島根女子大生平岡都さん殺害事件、世田谷一家宮澤さん一家殺害事件など、人々の常識の範疇を越えた凶悪事件が現実に起きています。川崎市で起きた少年グループ(とされている)による上村君殺害事件もまた不可解な事件です。悪魔や悪魔に憑依された人々は、現代社会に巧妙に溶け込み、雲隠れしつつ、社会を裏から操り支配しているのでしょう。

  • メイツ※
    Posted at 18:40h, 14 4月

    読解力の乏しい私にでも理解しやすい内容で、毎日の記事の更新有難うございます。

    ラプト様に出会ってから心も身体も良い方向に導かれているような感じがいたします。

    毎日の祈りでココロを変えられるように励みたいと思います。

    世界平和 LOVEANDPEACE

  • sano ken
    Posted at 19:52h, 16 12月

    では罪の遺伝的性質はどこから人類にもたらされたのでしょうか。神様は人間をもともと罪のあるものとしてつくられたのでしょうか。

    忙しいRAPTさんにこのようなふつつかな私の質問に時間をとっていたただくことは大変申し訳なく思いますが、もし教えていただけるのなら嬉しいかぎりです。

    補足「私は学生です。RAPTブログのおかけで聖書に出会ってあらわしきれない良い変化が自分にもたらされたことに感謝でいっぱいです。RAPT理論がますます完全になっていくことを応援し、RAPTさんにさらなる祝福があるように祈っています。」

    補足2「サタンがエバを誘惑しているとき夫【アダムはどこにいたのか】の認識を持つと、、アダムの罪を深く理解できるので、おこがましいかぎりではありますが、RAPTさんの記事に補足させていただきたいと思います。
    創世記3:6ー『いっしょにいた』と書いてあります。
    アダムは、妻エバといっしょにいて蛇の言葉を聞いているうちに、エバと同じように誘惑される。ただ神の命令を直接受けてたから、自分からは罪を犯せなかった。
    もし神様の仰せのとおり、善悪の知識の木の実を食べたその時 エバが死んだなら、アダムは神様にこう答えることができた。「主よ。私は仰せのとおり、善悪の知識の木の実は食べませんでしたが、妻は仰せに背き食べてしまったので死にました。」と。
    しかし事実は、アダムは食べても死ななかったエバを見て食べた。
    つまり、アダムは神のことば(命令)と蛇の言葉とを天秤にかけ、どちらが正しいかを妻であるエバを使って確認してから(なぁ〜んだ、大丈夫!食べても死なないじゃん!!)という確信を持って食べた。確信犯。と私は聖書を読んで理解しました。
    記事に補足などど大きく出て、間違っていたら大変申し訳ないです。」

  • sano ken
    Posted at 20:04h, 16 12月

    補足2が不十分に思えたので、追記。
    【神はアダムに「善悪の知識の木の実を取って食べるその時、必ず死ぬ。」と言われたのは、嘘だったのではありません。
    神との交わりを避け、身を隠した…アダムのうちに入れられた『いのちの息(御霊)』が無くなった。つまり『霊的に死んだ』。それは、善悪の判断基準を『神中心』から『自己中心』になったことを意味します。】
    だから肉体の死は時間をかけてやってきたけれど、霊的死はその時すぐさま二人に起きています。

    重ねて。RAPTさんに健康と祝福がありますように。

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